瞑想録 26  ― 力の言葉

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 夕食も、一日の家事も終え、明かりを消して尻の下にクッションを置いて、ユッタリと壁に寄りかかる。足を立てて、両手の人差し指で、腿に力の言葉を書いて行く。「力」・「調和」・「感謝」・「夢見」・「完成」・「悟り」・「自由自在」・「魔術」・「神話」・「復活」などなど。「マスターの教え」のインストラクションに従って、一つひとつの単語を心に刻み付け、それらが自分の心に与える影響をジッと観察する。

 

 5分ほどで、力の言葉の実習を終え、座布団を二つに畳んで、その上に尻を乗せ、胡坐をかいて背筋を伸ばす。想念を眺めて、頭と心を空にする。空に到達してから10分ほど瞑想する積りで空に集中する。1分ほど経ったかなと思ったところで、アラームが鳴る。想念が動かなくなればなるほど、時間の経過を短く感じるようになるようだ。真の瞑想者にとっては、「今」という瞬間しか存在しなくなるので、このように感じるのかも知れない。


瞑想録 25  ― 熱感

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 胡坐をかいて、背中を伸ばし座る。すぐに深い瞑想状態に入る。昨日から、腹全体に感じていた熱感を今日は下腹に感じる。暫く瞑想していると、心のオシャベリに巻き込まれる。気付いて、すぐに観想(=想念を観察すること)する。オシャベリは、自然に止まる。

 

 再び、密教瞑想に戻る。鎖骨の間から鳩尾にかけての任脈及びブロックになっている部分に意識を集中する。静かだ。「シー―ン」という静寂が耳に痛いほど聞こえる。二度ほど、吽=Umの言霊を使う。いつもは、眉間から丹田に向けて、すぐに気が下りるが、今日は、少し間をおいてユックリと気が下に落ちる。

 

 突然、近所で樹の剪定をしている業者が使うチェーンソーのエンジン音で、瞑想の静けさを破られる。幸いエンジン音はすぐに止まったが、再び心のオシャベリが始まる。すぐに気づき、観想する。

 

 心が静かになったところで、下腹の熱感に集中する。

 

 


瞑想録 24  ― 明烏

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 夜明け前に、烏が鳴いている。「もうすぐ夜が明ける。」と言っているようだ。


瞑想録 23  ― クムバク

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 ほぼ二年ぶりの瞑想録となりました。

 

 瞑想状態が全く進展せず、同じところをグルグル回ってる感じだったので、発表しようがなかったんですね。

 

 先ほど、想念の隙間に集中していると、自然に息が止まりました。今までにも、息が止まる事はありましたが、想念とは無関係だと思ってました。今更ですが、人間の心の在り方と呼吸の間には、深い関係があるようです。

 

 これは、自然呼吸ならぬ「自然止息」ですね。自分でも結構長い時間息が停まってるので、途中で「大丈夫かな?」と心配になるほどです。

 

 そう言えば、パラマハンサ・ヨーガナンダ著の「あるヨギの自叙伝」(森北出版)には、ヨーガナンダの師であるスワミ・スリ・ユクテスワの呼吸が瞑想中に止まったため、ヨーガナンダが慌てる場面が出て来ますね。私も、あの時のユクテスワ師と同じ状態になっているのでしょう。

 

 確認することは出来なかったんですが、もしかしたら、自然止息が頻繁に起きる時は、水中で呼吸している夢を見る事が多いのかも知れません。これも、関連性があるとは、全く考えていませんでした。しかし、〔瞑想中に呼吸が止まって、心配になる状態〕と〔水中呼吸の夢を見ている最中に、不安になる状態〕とは、よく似ているような気がします。

 

 夢見も瞑想も、かなり深くなってきました。日常生活の送り方も、かなり変化しました。自転車を漕いだり、歯を磨いたり、料理をしたりするときも、いつも座禅瞑想している自分自身の姿を思い浮かべながら、なるべくその行為のみに没頭するように努めています。妄想し始めたり、心の中でオシャベリが始まったら、すぐに心の中の警策で自分自身を叩くイメージを描きます。一般の方々の生活の在り方からすると、かなり窮屈な感じですが、これをやらないと前に進めないようなので、やるしかありません。

 

 普通に生活しながら、本質的には、一日中、樹下で瞑想修行しているゴータマ・シッダールタと同じ状態です。まだ、「仏陀」にはなっていません。修行中のシッダールタと同じように、魔が、次から次へと襲いかかって来ます。

 

 表面上は静かに生活しているように見えても、内面では、激烈な戦いが繰り広げられています。それは、起きている時も、眠っている時も、同様です。

 

 今日も夢は見ましたが、あまりに個人的かつ細かすぎる指示だったので、発表する事ができませんでした。様々な夢とヴィジョンを通じて、出過ぎたら、押し戻され、引き過ぎたら、押し出され、「バランスをしっかり保てよ!」と無意識から細かく〈心の持ち方〉と〈モノの考え方〉を矯正されています。

 

 上に行けば行くほど、厳しくなって来ました。時々、「自分は、ホントに前進出来てるのか?」という不安が頭を擡げますが、成長しつつある事を示すような小さな出来事が起きるので、随分助かっています。例えば、空手の組手における構えの形が、空手修行者の構えといよりは、柔術か合気道の先生たちの構えのように変化した事もその一例です。これは、意識して変えようとしたわけではありません、自然にそういう形になったんですね。

 

 今月の28日に、弟子のTさんと本年最後の稽古をしましたが、稽古後に、整体の一環として、かつぎ合い柔軟体操をやっている時に、私を背中に担いだTさんが、

 

 「今日は、先生が、いつもより重く感じます。」

 

と仰いました。去年までちょうどいいサイズだったズボンが、今はブカブカになっているので、体重は、逆に落ちてるはずなんですが、私を担いだ人が重く感じると言う事は、私の「気」が下に落ち始めている証拠です。

 

 さて、これから、どうなるでしょうか?たとえ、どんな結果が出るにせよ、最終段階まで、やり抜きたいと思います。

 

 

 

※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=3065

 

 


瞑想録 22  ― 顕教的アプローチ

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 久しぶりの瞑想録となりました。昨年の五月に記事をアップしてからつい最近まで、特に進歩が見られなかったので、瞑想については何も書きませんでした。

 最近は、エックハルト・トールにインスパイアされて、かなり瞑想が進みました。彼の言っている程度のことは、既に古今の聖者や宗教家が述べていることなので、別段真新しいことは何もなかったんですが、このタイミングとあの雰囲気で語りかけられたのは、大きかったですね。

 3年半近く悪戦苦闘して、どうしても超えられなかった壁を越えるキッカケを彼に与えてもらいました。

 彼の動画を視聴するまでは、瞑想に対しては、主に密教的及び仙道的なアプローチを取っていましたが、今は、顕教的なアプローチを取っています。顕教的なアプローチと言っても、臨済宗や曹洞宗などの禅宗的なアプローチではありません。密教的な瞑想に到達する前段階としての顕教的なアプローチです。

 どんな人の中にも真我が存在していますが、それに気づけない人たちが世のほとんどの人たちです。かく言う私も、まだその段階にいるんですが、やっとその存在が顕現するのを妨げているもう一人の自分の存在に気がつき始めました。

 「真我」という言葉が存在するなら、「偽我」という言葉も存在し得るわけです。この偽我は、過去世及び今生で作り出したカルマが自分自身に跳ね返って来たことにより、防衛機制として想念が作り上げた実体のない自分です。カルマ劇の中で、演じざるを得ない役柄の様なモノと言ってもいいでしょう。

 この役柄から抜け出して、本来の自分に戻る作業が、顕教的な瞑想だと言えるでしょう。

 師彦和尚は、いつも自分に向かって、「だまされるなよ!」「冷静さを保て!」と仰っていたそうです。まだ悟ったわけでないので、日常生活の中で、怒りや憎しみなどのネガティヴな感情が湧いて来るときがありますが、そういう時は、師彦和尚に習って、偽の自分に騙されないように努めています。

 この作業を通して、自分自身の中のシャドウを徹底的に叩き潰さないと、夢見を完成することも、悟ることも、クンダリニーを覚醒することもできません。無理して、クンダリニーだけ覚醒してしまうと、黒魔術の世界に入りこんでしまう危険性もあります。

 これから、自分自身の中に存在する敵との厳しい戦いが始まります。最後までやり抜いて、この戦いに勝利を収め、苦境を脱したいと思います。



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=2495

瞑想録 21  − 吽(=Um)の言霊

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 瞑想中に、吽(=Um)の言霊を使いました。いつもの如く、頭頂部から丹田にかけて、下降エネルギーが走りました。

 次に、吽の音を心の中で発声してみました。実際に音を出したときほどではありませんでしたが、それでも下降エネルギーは、流れました。



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1839

瞑想録 20  ― 多様な自己イメージ

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 久し振りの瞑想録となりました。

 瞑想録18 (http://koshiki.jugem.jp/?eid=1279) を書いてから、半年以上が過ぎましたが、気の流れや丹田の熱感に関しては、あまり大きな変化は起こりませんでした。現在も同様の状態です。


 ただ、最近は、瞑想中の自己イメージが変化し始めました。56歳の日本人男性としての自己イメージだけでなく、様々な自己イメージが、内側から目まぐるしく湧き上がって来ます。

 女になったり、男に戻ったり、子供になったり、老人になったり、白人になったり、黒人になったり、インディアンになったり、ビジネスマンになったり、政治家になったり、或いは芸術家になったりします。

 多面体である魂の本体の一面、一面が顕在意識に上って来ているのか、それとも前世で演じたキャラクターが出て来ているのかは分かりませんが、いずれにせよ、そのキャラクターが出ているときは、そのキャラクターの気持ちに成りきっています。

 瞑想しながら、自分自身の中に起きている多重人格現象をもう一人の自分が冷静に見ている。そんな感じです。

 この現象は、分裂している人格群が統合されて、統一体に戻る過渡期に起きるモノのように思えます。これからの自分の内面的変化に注目していきたいと思います。



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1434


瞑想録 19  ―タントラ夢と気の状態

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 (2013年4月26日 現在)

 昨日、海で瞑想しているときに、喉仏と鎖骨の間の窪みに下降エネルギーの流れを妨げるブロックを感じました。

 ここのところ、その部分にブロックを感じる事はあまりなかったので、ダムが決壊するイメージを頭に描きながら、その部分に集中瞑想してみました。するとブロックが解けた始め、気が流れ始めました。とは言え、太い気の流れは、丹田とお腹の真ん中辺りで止まります。

 瞑想していると、丹田や生殖器の当たりにかなりの熱感を感じるのですが、頭頂から降りてくる気が、中々そこまで到達してくれません。「吽=Um」の言霊を発した時だけ、かなり微弱な気の流れが、たまに到達する事はありますが、太い気の流れが丹田に到達する事はありません。

 「元型夢 9」(http://koshiki.jugem.jp/?eid=1336)のこちらを誘うように踊っているセクシーな女の子は、燃え滾り始めた丹田(生殖器を含めた)の象徴だと思われます。「早くここまで来て、私と合体して」と言っているのでしょう。

 「元型夢 4」(http://koshiki.jugem.jp/?eid=1328)では、夢の中で自分が女性と交合している場面をただ「見て」いるだけでしたが、私も、高藤聡一郎先生のように、明晰夢の中で美しい女性達とのリアルなセックスを体験したいと願っています。



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1337


瞑想録 18  ― 夢の深さ&気の流れ

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  昨日、共同執筆者の翔君から私の携帯にメッセージが入りました。

 「鷹野先生の首の無いシャドウの夢は、非常に深いですね。人は、結局、首から上の部
 分を使って、騙し合っているのだと思います。

  人の本質は、その人がイケメンだとか、美人だとかいう外観を見て判断するものではな
 く、その人の首から下の動きに注目して判断するべきじゃないでしょうか?」
          (「夢日記 208 ―首のないシャドウ」http://koshiki.jugem.jp/?eid=1277

 翔君の卓見であります。無意識は、普段の私が全く考えてもいない事を考えているようです。上記の、翔君のメッセージを読んで、色んな武道の先生の顔を隠して、首から下の動きのみを観察して見ました。

 合気道の創始者植芝盛平先生、肥田式強健術の肥田春充先生、そして本部流唐手の本部朝基先生などは、首を隠しても、掛け値なしにかなりの迫力の構えと動きでした。

 そうかと思うと、世間では凄いと思われている有名な武道の先生でも、お顔を隠してしまうと、「アレ、こんなもんか?」という先生もいらっしゃいました。

 どうやら、真の実力と言うのは、厳めしい表情や勿体をつけた口調などで大きく見せようとしなくても、自然に内側から湧いて来るもののようです。

 これは、人の実力だけでなく、その人の人柄を見抜く場合にも使えるテクニックかもしれません。

 自分でも気がついていなかった無意識の深い部分が、表に出てき始めたようなので、これからも寂しさに負けずに深い孤独の中で、無意識との対話を深めていきたいと思います。


 最近、「吽」=Umの言霊で、下降エネルギーが、かなり強く生殖器の部分まで流れるようになって来ました。

 若かりし頃、クンダリニーが覚醒した時は、いきなり丹田ができて、いきなり下降エネルギーが常時流れ始めました。ただ、クンダリニーは、ヨガの逆立ちを実習した直後か、「阿」=Aの言霊を使った時だけ背骨を下から上に走っていただけのレベルでした。

 今は、下降エネルギーが当時のクンダリニーと同じレベルにあります。つまり、「吽」=Umの言霊を使った時だけに強く流れるレベルですね。「天使の呼吸」とともに常時流れることはありません。

 ヨガの逆立ちは、まだ試していません。もしかしたら、逆立ちした後も、一時的に下降エネルギーが強く流れるかも知れません。下降エネルギーの原理が、上昇エネルギー=クンダリニーのそれと同じならば、逆立ちした後に流れるでしょう。明朝、試してみたいと思います。

 下降エネルギーの発達と夢見の発展の関連性にも、非常に興味があります。27歳で覚醒した時は、いきなり下降エネルギーが常時流れ始め、いきなり悟ってしまい夢を全く見れなくなってしまったので、今回は、下降エネルギーの緩やかな発達と共に、これから夢がどう発展していくかジックリ観察しながら、修行を進めていきたいと思います。我事ながら、非常に楽しみにしております。

 また、このサイバースペースで、お会いしましょう。

 Good night. See you in our dream !



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1279

瞑想録 17  −気功法

 

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 最近、私の住んでいる鷲尾山で、パワースポットを見つけました。そこを通っていた時に、何か神秘的な力のようなものを感じたので、そこでナイハンチやその他の空手の型をやったところ、通常の場所で鍛錬する時とは、比べ物にならないくらいに丹田が充実したのです。

 普段、瞑想するために行く西区の端にある山にもパワースポットはありますが、何せ遠方ですので、しょっちゅう行く事はできません。近場でいいスポットはないものかと探し回っていた時、偶然この場所を見つけました。「灯台下暗し」とは、よく言ったもんです。まさか、自分の住んでいるアパートの近くにあるとは・・・・・・

 因みに、私は、気功法というものを、キチンと師匠について学んだ事はありません。27の時に偶然、クンダリニーを覚醒し、またまた偶然、クンダリニーを落としてしまってから、自分で試行錯誤しているうちに、発見したものが殆どです。後で、気功法の本などで、確認して自分の体得したものが、伝統的な気功法の原理にマッチするものであった事を確認しました。

 もちろん、その方面に関しての夢の導きもありました。最近もそうです。

 私が、面白いと思うのは、空手や拳法の様々な型の中に、気功法と同じ鍛錬が含まれている事です。私、さきほどキチンとした師匠について気功法を学んだことはないと申し上げましたが、正確に言うと違います。なぜなら、私の拳法の師匠は、気功法の応用としか思えない技術を使いこなされていたからです。

 あまりに超人的な技を駆使する師匠に驚いた私が、「どういう練習をすれば、そんな技が使えるようになるんですか?」と尋ねると、師は、「基本通りに練習を続けなさい。いつか、君も気付く事が出来るよ。」と仰いました。「気功の原理に早く気づく事だ。そのためのヒントは、基本の型の中にあるよ。」と仰りたかったのだと随分後になって気がつきました。

 多くの空手・拳法の修行者が、この事に気付かないまま型を練習しているのは、法華経五百弟子受記品の「衣裏繋珠」の譬えのようです。

 
 「衣裏繋珠」の譬え:
  

 ある貧乏な男が金持ちの親友の家で酒に酔い眠ってしまった。親友は遠方の急な知らせから外出することになり、眠っている男を起こそうとしたが起きなかった。そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけた。男はそれとは知らずに起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り他国を流浪し、少しの収入で満足していた。時を経て再び親友と出会うと、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができた。

         (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9

 
 私は、さまざまな空手や拳法の型の中から、自分の体で試しながら、気功法として使える動きを抽出し、自分だけの鍛錬用に再編しました。これを人に教えた事は、ほとんどありません。このブログの共同執筆者である翔君には、一部伝授いたしましたが・・・・・・

 沖縄にも気功法は伝わっているようですが、これは、現在でも流派の継承者にのみ一子相伝的に伝えれらているようです。首里手の達人、糸州安恒が、鼻以外はどこでも弟子達に突かせたり、蹴らせたりしていたのは、明らかに硬気功だし、これもまた首里手の達人、本部朝基が沖縄の石垣で跳び越せない石垣はなかったのは、明らかに軽気功でしょう。

 継承者以外には、正統な技術を教える事はあっても、この部分が教授される事は、現在でもないようです。

 因みに、私がついていた剛柔流の師匠、上原先生も気功法は受け継いではいらっしゃなかったようです。ただ、私が習いに行っていたころ、私が中国拳法を修行しているとお知りになり、「君の師匠は、武備誌が読めるか?もし、読めるんなら、解釈して欲しい。」と私に頼まれた事がありました。その後、ベースボールマガジン社から、「武備誌」の訳本が出版されたので、紹介の必要はなくなりましたが。上原先生は、武備誌に書いてある気功に関する記事をお読みになりたかったのだと思います。

 例え、弟子がウチナンチュー(沖縄人)であったとしても、正統継承者以外の人は、気功法とその武術的な応用法は伝授される事はないという事でしょう。これは、秘伝中の秘伝ですから、琉球王国解体以降に、空手が一般に公開され始めても、この部分だけは公開しなかったのだと思われます。もしかしたら、上原先生の師匠だった宮城長順先生も、東恩納寛量先生からこの部分は、受け継いではいらっしゃなかったのかもしれません。

 東恩納先生は、道場の床板を踏み割られた事があるそうですから、同様のエピソードをお持ちの肥田春充先生(肥田式強健術の開祖)に勝るとも劣らぬ丹田力をお持ちだったはずです。

 
 
 話が、思わぬ方向に発展してしまいました。話を私の鍛錬方法に戻します。

 今日も、パワースポットに行き、気を練りました。それだけでは、物足りなかったので、久し振りに海岸に瞑想に行きました。山からだけでなく、海からもエネルギーを吸収したかったのです。

 海岸で、瞑想後に、15年以上やっていなかった剛柔流に伝わっている型をやってみました。白鶴と八歩連という型です。これは、早く動くバージョンもある型ですが、気功的な効果を得たいので、今日は呼吸と共にユックリと動くバージョンのものを演じました。ホントに久し振りだったので、少し忘れている部分もありましたが、有り難いことにやっているうちに体の方が思い出してくれました。

 正直言って、かなり驚きました。これを習った時は、丹田が全くできていなかったので、気がつきませんでしたが、これは、武術的な効用だけではなく、優れた気功法としての効用も備えていると気がついたからです。やる前は、すっかり錆付いているんじゃないかと心配していましたが、錆付いていたどころの話ではなく、やればやるほど、下腹に鉄板が入ったように充実してきます。これは、今の時期の私だから、効果が出たのでしょう。

 さきほど、多くの空手や拳法の修行者の方々が、型の気功的な効果に気がついていないと申し上げましたが、私も人の事は笑えません。今日という日まで、私がこの二つの型の有効性に気がついていなかったのも、まさに「衣裏繋珠」の譬えと同じです。

 これらの二つの型は、三戦や転掌と同様に呼吸と共に行う型ですが、三戦や転掌と大きく違う点は、後者のように、腰を抜いて行うのではなく、背中を真っ直ぐにし腰を入れて行うところです。長年の鍛錬で丹田がある程度出来上がった人が、これを行うと、かなりの気功法的効果があることが、分かりました。

 知らないという事は、ホントに怖いですね。長い間損したなとも思いますし、今だからこそ気付かせてもらったのかなとも思います。まだ、鷲尾山のパワースポットでは試していないので、次回は是非試してみたいと思います。

 

 

※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1265


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