歴史に翻弄された人生

JUGEMテーマ:歴史


  歴史上、不幸で数奇な運命を辿った人物を取り上げて、「歴史に翻弄された人生」という表現があちこちで使われている。しかし、逆に考えてみると、「歴史に翻弄されない人生」はあるのか?と考えてもみたくなる。社会の一員として生きる限り、人生は歴史に大きく左右されるものだし、いわば社会を構成する全員が「歴史に翻弄された人生」を歩んでいるのだ。そして歴史を作るのは人間で、人が人の人生を翻弄しているわけである。但し、山奥で人里離れた生活を送っている場合は除外する。
 

 ところで、歴史に絡めて言えば、「歴史を変えた人物」という表現も頻繁に耳にする。「歴史を変える」ということは、つまり「歴史の流れを変える」という言い方も出来ると思う。では、この歴史の流れを変える、とは一体何なのか?適当な表現が見つからないが、「社会の価値観を変える」という陳腐な言い方も出来るのではないか?指導者と大衆が、ある程度具体化されて共有化された価値観を持ち、一定の方向へと向かっていく様子を思い浮かべてもらいたい。

 話を「歴史」に戻すと、たとえば10年間という比較的短い歴史を考えてみよう。今は2009年だから、今から10年前は1999年である。ノストラダムスの預言は当たらなかった。彼の預言を誰もが小馬鹿にしていたあの頃、まさかその2年後にニューヨークで大規模なテロが起き、イラク戦争が起きるなんて誰も予想していなかった。「テロとの戦い」という新たな価値観が生まれ、それがこの10年間の歴史となった。その歴史の中に死んでいった人たちも紛れもなく「歴史に翻弄された人生」である。

 ところがこの10年間よりも、もっと価値観が変動して、歴史が大きく動いた時があった。1940年から1950年までの10年間である。時は1940年、アジアでは日中戦争に決着が着かず、日本では戦時体制が徐々に強化されていった。ヨーロッパではドイツが破竹の勢いで西欧を支配下に納めていた。五族共和。贅沢は敵だ。鬼畜米英。天皇陛下万歳。

 その5年後、まさかドイツが戦争に負け、日本に原爆が落ち、天皇制の存続すら危ぶまれるなど、誰が想像しただろうか?あれほど軍事色で染まっていた日本が、わずかの間に平和憲法を発布し、神様だったはずの天皇は人間になり、鬼だったはずのアメリカ兵に群がってはギブミーチョコレート。この変わり様の速さには、空襲や原爆よりも、別の種類の怖さを感じる。
 

   さらにその後、日本と戦争して団結していたはずの中国が、再び仲間割れを始め、毛沢東が蒋介石を破って大陸に新しい国を作ってしまった。そして日本の植民地だった朝鮮も2つに割れて、アメリカとソ連を後ろにつけて戦争を始めている。また、ベトナムとインドネシアは、旧宗主国と戦争をおっぱじめる。そして平和憲法を手にしたはずの日本では再軍備が始まるのである。

 この時代を生きた人びとは大変だ。生きていくことはもちろん、時代の流れについていくことで必死だったのではないかと思う。こんなに価値観がコロコロ変わるようでは、一体何を指針に生きていっていいものやら、分かったものではない。歴史は人を翻弄するし、人も歴史を翻弄する。

 これから先も、価値観は大きく動揺し、歴史は人を翻弄し続けるだろう。そして、この瞬間にも、人は翻弄され続ける。これを書いている私も、そしてもちろん、これを読んでいるあなたも・・・・・。                      (仁の作品)




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あの日から


 (2008年3月11日 現在)
 昨日3月10日は東京大空襲の日だった。私の母方の祖父もあの地獄を体験したうちの一人である。群馬に住んでいた祖父は、東京にいる友人を尋ねてやってきたのだが、その日が運悪く昭和20年の3月9日であった。しかもよりによって、一番ひどくやられた葛飾区亀有に泊まっており、空襲のあいだはずっと防空壕の中で布団をかぶって息を潜めていたそうである。ところが、亀有の中でも祖父がいた一角は運よく焼け残った。夜が明けて外へ出てみると、そこには焼け野原、そして黒こげになった死体の山・・・祖父は生きた心地がしなかったという。

 第二次大戦は、無防備な市民が爆撃の対象となった例が、他のどの戦争よりも多い。実はこの東京大空襲の8年前にも、日本は中国国民党の本拠地である重慶を爆撃し、同じくらいの死者を出している。このような無差別爆撃は、あらゆる戦争当事国が行っており、その目的は一言で、「市民に恐怖を与え、戦争への嫌悪感を抱かせる」というものである。東京大空襲もその一例で、その指揮をとったのは米軍のカーチス・ルメイ少将である。彼の言い分としては、「軍需産業の労働者である市民を攻撃し、彼らに厭戦気分を抱かせる。そして戦争を早期に終結させる。」というものであった。

 現在、日本の学校では「平和学習」と称して空襲の恐ろしさを学ぶ授業が行われていて、いかに戦争が悲惨でイヤなものかを教えている。その意味では、ルメイの作戦は成功したと言って良い。しかし、やられた側の日本にとっての問題は、なぜあそこまで死者が出てしまったのか、ということである。確かに誰だって戦争はしたくないし、空襲で家が焼かれるのは真っ平だ。

 だが、戦争状態であった以上、米軍による本土空襲はサイパンを取られたからには予想できたことであるし、軍需工場の移転や、防空体制の整備を急がなければならないはずであった。当時、大本営は徹底抗戦を国民に呼びかけ、「一億総玉砕」を叫んでいたが、勘違いも甚だしい。戦争は敵に損害を与えて、味方の犠牲をいかに少なくすることが常識だと思われるのだが、当時の大本営にはそんなことも分かっていなかったのか?

 戦後、佐藤栄作内閣のときに、航空自衛隊創設に貢献したとして、日本政府からルメイに勲章が贈られている。まさかルメイも、かつて自分が無差別爆撃を行った国からこんなものをもらうとは思ってもみなかっただろう。日本政府にとっても、ルメイ本人にとっても、最大のブラックジョークに違いない。もっとも、天才戦術家ルメイには、自分のやったことを認識してもらうためにも、この勲章を地獄の底まで持っていってほしいものだが。

 分かりきったことだが、戦争は起きやすく、平和は保たれにくい。平和学習の際には、そのような文言を盛り込むことが必要だ。なぜ戦争は起こるのか、敵は何が目的なのか。もし戦争が起こったとき、どこに逃げればいいのか、どうすれば助かるか、どうすれば味方の犠牲を減らせるのかも考えなければいけない。「空襲は怖い」だけでは戦争は防げないし、自分の命も守れない。ルメイの戦術に引っかかっている場合ではない。
                                  (仁の作品)




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ブラックホール

JUGEMテーマ:中国関連


 昨日、NHKの「激流中国」という特集で、共産党の地方幹部のことが取り上げられていた。
 取材されていたのは東北の遼寧省撫順市。
 ここはかつて満州国時代に炭鉱の町として栄えた場所で、あの李香蘭もここに住んでいたそうだ。
 国有企業の整理を任された地方幹部が奮闘する内容だった。
 土地整理のために、住民に立ち退きを命じるのだが、住民は一向に聞く耳を持たない。
 幹部が直々に説得に行くのだが、結局は水掛け論で終わるのである。
 テレビでは放映されないが、おそらくはあの後、有無を言わさず強制的に立ち退かされて、建物はただちに取り壊されたと思われる。
 昨日まで営業していた店が、今日は建物が解体されていた、なんて話は日常茶飯事だ。
 これは長春でも事情は同じだった。
 いつもと同じようにその店に行ってみると、もう解体工事が始まっていて、店の人はそのまま行方知れず・・・といったことはよくあった。
 しかも中国の建築はほとんどがレンガ作りなため、解体現場はまるで空爆でも受けたのかと思うくらいの乱雑なぶっ壊し方なのだ。

 撫順は2003年のはじめ頃に行ったことがある。
 満州国研究家でお馴染みのY田氏のお供である。
 炭鉱の町というイメージがあり、暗い町なんだろうな、と想像していたらとんでもなかった。
 満州国時代に作られた駅舎はそのまま保存されているものの、駅舎は金融機関の巨大な看板で覆い隠されていて、「お客様の信用が第一です」みたいなキャッチフレーズの隣にきれいなお姉さんが微笑んでいる。
 日本の消費者金融の看板にそっくりだ。
 しかも駅前にはマクドナルドがあり、若者たちの服装は、一見して長春の若者よりもお洒落に見えた。
 店内では「迷子のお知らせをいたします」というアナウンスが流れていた。

 我々はバスに乗って、平頂山を目指した。
 ここは満州国ができて間もない頃、抗日ゲリラが撫順炭鉱を襲撃した後、関東軍の追っ手を逃れて通過した村で、関東軍はここに抗日ゲリラが潜んでいるとして、村人3000人を虐殺したと言われている。
 その村は撫順郊外にあった。
 町の中心部は明るかったが、郊外ともなるとさすがに寂寞とした風景が広がってきた。
 平頂山はほとんど人影がなく、虐殺を記念するセレモニーには、花が手向けられていた。
 黙祷を捧げた後、我々は退散した。
 
 バスで中心部へ戻る途中、巨大なブラックホールみたいなものが見えた。
 撫順炭鉱だった。
 直径1キロから2キロくらいの巨大な穴で、その周りを貨物列車がグルグル取り囲んでいた。
 思わず吸い込まれてしまいそうなほど巨大である。
 
 撫順で忘れてはならないのが、戦犯管理所である。
 現在は普通の博物館になっていて、かつては日中戦争や国共内戦で捕虜になった者を収容しており、清朝最後の皇帝・溥儀もここにいた。
 収容されていた人々の写真もあったが、国民党の捕虜が意外に多いのが驚かされた。
 日中戦争では共に戦った仲だったが、それが終われば今度は敵。
 歴史ってものは、変わりやすいものである。
 溥儀が収容されていた部屋は一般公開されている。
 彼は収容された当時、靴のヒモもろくに結べなかったそうだ。
 建物の正面には、日本軍捕虜の懺悔文を記録した記念碑が建っている。
 「私たちは中国に対して侵略戦争を起こしました。(中略)しかし共産党の温かい配慮のおかげで正常に戻ることができ・・・」
 どうやら、洗脳は成功したようである。

 戦犯管理所の隣は何やら陰気な建物だった。
 鉄格子が張ってある窓から誰かがこちらを見ている。
 入り口には銃を構えた警官がこちらを監視している。
 本物の刑務所だった。

 この撫順という町は満州国の遺産と、共産主義時代の中国、そして発展が進む中国という三つの時代が交錯しながら共存する町だった。
 撫順炭鉱のブラックホールみたいな巨大な穴は、100年後には世界遺産にでもなるんではないかと思うくらい馬鹿でかいが、おそらくその前に政府によって「石炭の時代は終わった」と告げられると共に、無用の産物として埋められる運命にあるだろう。
 NHKに映っていたあの地方幹部は、上からの命令でおそらくこれからも「市場経済化」を進めていくに違いない。
 撫順だけではなく、ああいったことは中国全土で行われている。
 市場経済化した中国が、撫順炭鉱のようにブラックホール化して、アジア経済を飲み込む日も近い。

 (仁の作品)



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ミャンマー

JUGEMテーマ:歴史


 ミャンマーは今、民主化デモと、軍事政権による弾圧によって、世界で最も注目されている国のうちの一つだ。
 偶然かは知らないが、私の中でもミャンマーは注目すべき国となっている。
 というのも先日、東京の伯父から郵便が届いたのだ。
 その中には、亡き大叔父の戦争体験記が入っていた。
 伯父が、大叔父の存命中に戦争体験をインタビューして文章にまとめたものである。
 
 それによると、大叔父は戦時中ビルマにいたという。
 暴動が起こったあのヤンゴン(当時のラングーン)にも足を踏み入れているようである。
 1940年、当時の言い方では紀元節2600年、大叔父は20歳で軍に召集され、中国戦線に送り出された。
 すでに戦局は泥沼であり、アメリカとの関係もすでに悪化していた時期である。
 
 大叔父は中国南部の戦線で日本軍の数々の残虐行為を目にしている。
 八路軍と関係がある、と疑われた村は根こそぎ焼き払われたようである。
 「残虐行為がなかったなんて、最前線に言ってない人間が言うことだ。」
 と不満を漏らしている。

 その後、太平洋戦争の勃発とともに、ビルマへ送られる。
 大叔父はそこでかの有名なインパール作戦に参加した。
 ジャングルの中にもかかわらず、渡された武器は1メートル60センチもある38式歩兵銃で、一発一発を敵に狙いをつけて撃てと命令され、しかも補給も滞りがち。
 それに比べて敵は自動小銃で滅茶苦茶に撃ってくるし、飛行機からどんどん補給物資をパラシュートを使って落としていく。
 雨季になると暑さと湿気はさらに増し、マラリアなどの疫病が流行り出す。
 まさに地獄絵図そのものだ。

 「くそ真面目に命令なんか聞いていたら、命がいくつあっても足りない。」
 「こんな作戦が無謀だってことは、小学校しか出てない俺にも分かる。」
 と、当時の指揮官や、東条英機への恨みが書かれている。
 
 昨日、NHKでインパール作戦に参加した兵士たちのドキュメンタリーがあったが、彼らは第18師団だという。
 大叔父は33師団だったので、組織そのものは別だが、ひょっとしたら大叔父と顔見知りだったのかもしれない。
 彼らの証言は、大叔父の証言と驚くほど酷似していた。
 38式歩兵銃の話から、過酷な環境の話やら敵の圧倒的な物量の話まで、何から何までそっくりだった。
 こんな中でよく生きて帰ってこれたものだ。
 この証言者たちも、大叔父も恐るべき幸運の持ち主である。

 大叔父の話を読み進めていくと、ビルマにおいても、中国と同じような残虐行為が行われていたようだ。
 イギリス軍と通じている、と疑われた村は、村民ともども焼き払っていたのだ。
 そう考えてみると、「日本の戦争はアジアの国々を独立に導いた。日本はいいことをした。」という意見に首を傾げざるを得ない。
 確かに事実だが、それは単なる結果論であって、途中経過にこのような残虐行為があったことを考えると、あまりにも短絡的なまとめ方である。

 大叔父は終戦になってイギリスの捕虜になり、船で帰国した。
 戦後10年たって、戦友たちが集う同窓会があり、大叔父もそれに参加した。
 「将校や指揮官など、相変わらず上の者が威張りくさっていて、二度と行く気がしなかった。」
 とのオチがついていた。

 小さい頃、私は大叔父に一度だけ会ったことがある。
 病気で入院中だった。
 彼はにこやかに笑っていた。
 その後で、母親から大叔父が戦争で悲惨な体験をしてきたことを知らされた。
 今思い起こすと、そんなことが感じられないような笑顔だった。

 大叔父は元号が昭和から平成に変わる時に合わせたかのように、一人静かに亡くなった。
 郵便配達員が、自宅で死んでいるのを発見してくれたそうだ。
 今回、母の兄である伯父は、この大叔父の戦争体験記を文章にして完成させてくれた。
 この文章が果たして出版という形にもっていけないものか。
 我々だけで読むのは勿体無い。

 あれから62年たった。
 日本は平和になったが、ミャンマーは相変わらず平和ではない。
 日本人も一人犠牲になった。
 そのミャンマーは、いろんな意味で大叔父の青春の地である。
 ミャンマーの一日も早い平和を願おう。

 (仁の作品)




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栄光なき者たち

JUGEMテーマ:国際社会


 最近、広田弘毅について目にする機会が増えた。
 城山三郎著「落日燃ゆ」や、NHKの「その時歴史は動いた」「A級戦犯は何を語ったか」などで、大きく注目されている。
 東京裁判の映像で、“The accused Hirota Kouki, Death by hanging"(被告人ヒロタ・コウキを絞首刑に処す)と判決を受け、傍聴席にいる家族にチラッと視線を投げかける彼の姿は印象的である。
 
 広田は二二六事件の直後に首相を務め、近衛文麿内閣で外務大臣を務めた人物で、東京裁判でA級戦犯として処刑された人物である。
 なぜ彼が処刑されたのかという理由について、東京裁判の判決では、「日中戦争に奔走する軍部に追従し、戦争を止める責任を怠った。」ということになっている。
 それをさらに拡大解釈して、「軍と共同謀議で戦争を始めた」という意見すらあったという。

 しかし、広田が共同謀議に加担したという事実は確認されていないし、そもそも共同謀議があったかどうかさえも疑わしいのである。
 要するに広田は「戦争を止めるのに消極的だった。」というわけだ。
 
 東京裁判そのものに不可思議な点が多いのは事実だが、広田が処刑されたという点は、弩を越して不可思議である。
 調べていくうちに疑問が次々と湧いてきた。
 東京裁判で問題になったのは、主に「平和に対する罪」と「人道に対する罪」である。
 広田に適応されたのは後者の「平和に対する罪」であろう。
 よく考えてみると、「戦争回避に消極的だった」から死刑になった、というなら、世界には死刑に処されるべき人間は実はゴマンといる。
 実際、アメリカの歴代の大統領はすべてこの「戦争回避に消極的な罪」に引っかかるのではないだろうか?

 イギリスと戦争をしたジョージ・ワシントンや、南北戦争時のリンカーンはもちろんのこと、米西戦争でフィリピンとカリブ海の島々をスペインから奪ったマッキンリーなどはその典型である。
 セオドア・ルーズベルトは棍棒外交なる軍事力を背景とした政治で、諸外国を圧迫。
 フランクリン・ルーズベルトは、日本にハル・ノートをつき付けて戦争を挑発した。
 トルーマンは原爆投下に続いて、朝鮮戦争に参戦。
 アイゼンハワーはレバノンへ軍を送り、またイランのクーデターを支援。
 ケネディとジョンソンはベトナム戦争を始めた重大な責任があるのは言うまでもない。
 レーガンはソ連を「悪の帝国」と罵って挑発、ブッシュ父は湾岸戦争を始めた張本人であることは疑いない。
 またブッシュ・ジュニアは世界の反対にも関らず、イラク戦争に踏み切った。
 イギリスのブレアも、オーストラリアのハワードも、わが日本の小泉も、東京裁判の理論を使えば、明らかに「共同謀議」である。
 上記の人物は全員、「平和に対する罪」でただちに裁かれて然るべきという理論も成り立つのである。

 自衛のための戦争だった、という言い訳も可能であろう。
 しかしあらゆる戦争は、「自衛」ということが前提になっている。
 近頃は、「人道に対する罪」としてミロシェビッチやサダム・フセインが裁かれたのは記憶に新しい。
 しかし「平和に対する罪」という言葉はあまり聴かれなくなった。
 おそらくこれを持ち出してしまうとヤバイということをアメリカの政府関係者をはじめ、世界中の政治家たちが気づいていることだろう。
 中国政府は小泉の靖国神社を非難していたが、その理由は「A級戦犯を祀っているから」というものだった。
 しかしそのA級戦犯が具体的にどのような罪を犯したのか、どういう理由で処刑されたのか、ということには踏み込んでこなかった。
 この「平和に対する罪」という怪しげな名の罪状は、あらゆる解釈が可能であり、自分たちもそれに引っかかってしまうことを恐れているからではないだろうか。
 「台湾が独立すれば武力行使する」と明言して台湾を挑発して戦争の準備をしているのは、他ならない中国政府自身だからである。

 アメリカ政府はイラクに派遣している兵士の数を削減すると発表した。
 これ以上イラクに深入りすると、後世からろくな評価を受けないということに気づいたのであろう。
 またアメリカがどこかの国に戦争を仕掛けようものなら、我我は声を挙げて、
 “The accused George.W.Bush, Death by hanging!!”(被告人ジョージ・W・ブッシュを絞首刑に処す!!)といわざるを得ない。
 今も福岡の大濠公園の近くに建つ広田の銅像は、このアメリカの「平和に対する罪」をどう見ているのだろうか?                     (仁の作品)




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大統領との出会い

JUGEMテーマ:エッセー・紀行文


 私がその大統領に出会ったのは2002年の冬であった。
 出会ったといっても、別にお互いに顔を合わせたわけではない。
 そもそも顔を合わせるのは物理的に不可能である。
 第一、その大統領は私が生まれる前に亡くなっている。
 
 当時、私は中国・長春に語学留学中であり、友人のほとんどは韓国人であった。
 外国人の友人ができると、その国の歴史を知りたくなるのは自然なことである。
 彼らと接する中でしばしば出てくる名前が「朴正煕(パク・チョンヒ)」という人物であった。
 高校のときの歴史の教科書の一端に出てくるこの名前を久しぶりに聞き、私はこの人物の正体を探ろうと躍起になった。

 インターネットで調べてみると、彼の顔写真を載せたHPが見つかった。
 鋭い目、陰鬱そうな表情、細長い強面、何か影を背負った人物。
 私の彼に対する第一印象はかくのごとき「薄暗い人物」であった。
 そして調べていくうちに、彼が韓国近代史にとって、いい意味でも悪い意味でも欠かすことの出来ない人物であることを悟るのである。

 1917年、日本統治下の朝鮮南部・慶尚北道の貧農に生まれる。
 教員として勤めた後、満州国の陸軍士官学校で学ぶ。
 独立後、共産主義者として投獄され、その後釈放。
 1961年、クーデターにより政権を奪取し、その後大統領に就任。
 反共をスローガンに高度経済成長を達成、その功績は後に「漢江の奇跡」と称えられるに至る。
 しかし、その強権的で権威主義的な政治は国内外から反発を招き、国中における暴動や反発の大混乱の中で部下に射殺され、62年の生涯を閉じる。
 
 18年間に及ぶこの期間、彼は韓国にどのようなものを残したのだろうか?
 2004年、私は彼の足跡を尋ねるつもりでソウルを訪れた。
 彼の眠る国立墓地は軍によって管理され、その墓は入口からだいぶ離れた高台にあった。
 そこからはソウルの町中を見渡すことができる。
 彼は生きている時も、死んだ後も独裁者であった。

 経済成長の功績が称えられてか、丁重な葬り方ではあるが、かと言って彼が韓国人全員から尊敬を集めているかといえばそうでもない。
 最近、パク大統領記念館なるものの建設を推し進めようとする動きがある一方で、どこかの市民団体が、彼の「人権抑圧」や「恐怖政治」を非難し、建設反対を唱えている。
 
 パク大統領のこのような圧制は日本でも当時知られていた。
 この頃の韓国を知る日本人はほとんど異口同音に言う。「イメージが悪かった。」
 軍事独裁政権、労働組合の弾圧、反体制派への拷問、労働者や学生のデモ・・・暗黒で地獄みたいな世界というイメージが付き纏い、今でいう「韓流」や「ロマンチック」さからは想像もつかない世界である。
 マスコミはこぞって、このような情報を流し続けた。
 むしろそれ以外の情報を流してはいけない、といった空気さえあったという。
 今でいう北朝鮮のようなイメージであろうか。
 昔、このようなダーティな情報を流しまくっていたマスコミが、今は韓流を煽っているのだから世の中はどう変わるか分かったものではない。
 
 そしてこのような暗黒のイメージを持った韓国を知る世代は少なくなってきている。
 今でも韓国の世論調査で「一番偉大な政治家は誰か」という質問に対して、ここ10年ほど連続でパク大統領の名が挙がっている。
 人々に心の傷を残したことは間違いないが、「なせばなる」という自信を残したことも間違いない。
 彼が登場するまで、経済活動に勤しむことは恥とされてきた社会だったが、彼が登場して以降は、「経済こそが国の根幹」として旧来の価値観の打破を行ったのである。
 今、韓国ではベンチャービジネスが盛んであると聞くが、それはパク大統領の思想が少なからず影響している。
 
 ただ経済成長を急ぎすぎた。
 海外から投資を呼ぶために、労働者とくに製造業の従事者の賃金は徹底的に低く抑えられていた。
 農村から労働力を強制的に動員し、工場での勤務に従事させたのである。
 ハーゲン・クー著『韓国の労働者』には労働者の悲痛な叫びが綴られている。
 また成長を急ぎすぎたために安全を軽視し、その後、手抜き工事による橋やビルの崩落を招いたことも事実である。

 パク大統領が今の韓国社会に与えた影響は、正においても負においても計り知れない大きなものがある。
 産経新聞ソウル局長の黒田勝弘の言葉を借りれば、貧農家庭に生まれ、クーデターを敢行して、部下による凶弾に倒れるという人生はまさに「革命児」そのものだった。
 大統領との出会いを通して、人間性や歴史というものには光と影の二面性があることを再認識せざるを得なかった。
 あの陰鬱な表情の裏には、国民を豊かにさせてやりたいとの熱烈な愛国心があったのではないだろうか?
 しかし、途中経過を見ると、それはやや行き過ぎたものであった。
 おそらく、これらの経験は今後の北朝鮮における経済建設にも参考になるのではないだろうか?                             
(仁の作品)



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