北京五輪の行方



(2008年8月 現在) 
 まだまだ先だと思っていた北京五輪の日が目前に迫っている。五輪に先立って、中国ではチベット暴動やら地震やらテロやら、何やら不穏な動きも目立っている。一方で、中国を訪れた友人の話によると、「我々も五輪を契機に、一斉に窓拭きを行う!」というホテルもあったらしい。「窓くらい日ごろから拭いとけ」とも言いたくなるが、笑うに笑えない笑い話も転がっているようだ。

 ヤフーのニュースによると、本日8月4日に新疆ウイグル自治区で爆弾テロがあったという。そのニュースを抜粋して紹介する。

  ――――テロの不安、五輪に暗雲=最大懸案が現実に−中国〔五輪〕
「【北京4日時事】中国新疆ウイグル自治区カシュガルのテロ事件は、北京五輪の開幕4日前という最悪のタイミングで発生した。しかも、当局がウイグル独立派の妨害を想定し、かつてない厳戒態勢を敷いたにもかかわらず事件を防止できなかった。最大の懸案が現実のものとなり、五輪の祝祭ムードに冷水を浴びせられたことに、指導部が受けた衝撃は計り知れない。

 北京五輪安保指揮センターの田義祥軍隊工作部長は1日、外国報道陣を前に「われわれには強力な情報機関があり、テロ勢力の活動を既に掌握している」と指摘。新疆自治区のマイハスティ副主席も「破壊活動は芽のうちにたたきつぶす」と述べていたが、カシュガルの事件でこうした自信は覆された。

 胡錦濤国家主席は同日、海外メディアとの会見で「五輪成功の決定的要素は団結、友好、平和のオリンピック精神を輝かせられるかどうかだ」と語り、五輪を通じて「調和社会」を印象付けたい考えを示していた。

 しかし、3月のチベット暴動に続いて起きた新疆のテロ事件は、中国の民族問題が先鋭化している実情を露呈。少数民族地域が団結や平和とは程遠いことを浮き彫りにした。

 中国当局は事件の背後を徹底捜査する一方、各国の選手団や報道陣が集まる北京と他の競技開催都市で警備を一段と強化。テロ防止の万全の態勢づくりに努めるが、カシュガル事件が五輪に大きな影を落とすことは避けられそうにない。(了)」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080804-00000097-jij-spo)

 確かに深刻であることは間違いないが、何だか腑に落ちない記事だ。一段落目に「指導部が受けた衝撃は計り知れない」と書いてあるが、実際に指導部にインタビューして得られた情報なのか?それはいいとして、全体的に見ると、まるでテロが起こった事を喜ぶような記事であるという印象を受けた。

 むしろこのように中国に起きた不幸な出来事に関して、五輪と関連づけて「五輪に大きな不安を与える」といった伝え方をするメディアは多い。それも五輪が近づくにつれて多くなっているような気がする。「五輪の祝祭ムードに冷水を浴びせ」ているのは、テロリストたちよりもこの記事であり、ひょっとしたらこの記者たちはテロリストの仲間なのかと疑いたくなる。

 このような爆弾テロは初めてではなく、1997年にも発生している。またチベットでの暴動はこの1959年や1989年にも大規模なものが起きている。そのため今に始まった問題ではなく、「中国の民族問題が先鋭化」というよりは、「慢性化」と表現した方が適切であるように思う。「少数民族地域が団結や平和とは程遠い」かどうかは知らないが、別に民族同士が常にピリピリした状態で睨み合っているというわけでもない。私はウイグルやチベットなどは行ったことはないが、中国東北や北京などで、街中で民族同士が出合い頭にケンカを始める光景には出くわさなかった。

 今回の五輪を、1936年のナチス政権下でのベルリン大会と同一視して、「政治的要素を含んだ五輪だ!」と指摘し、その失敗を願うような声も多い。実際、平和の祭典とは名ばかりで、これまでの五輪で政治的要素を含まない五輪が果たしてあったのか大いに疑問である。まずオリンピックはある程度経済力を持った国でしか行われない。五輪の真の目的はその国の国威発揚に他ならないからだ。

 また平和の祭典などという嘘八百は聞いてあきれるばかりである。1948年のロンドン大会では、日本選手団は敗戦国であることを理由に参加を拒否されている。1980年のモスクワ大会では、西側諸国はソ連のアフガニスタン侵攻を理由に参加を拒んでいる。五輪はまさに国際政治そのものだった。

 私の勝手な予想だが、今回の五輪は普通に始まって普通に終わりそうな気がする。1988年のソウル大会でも、北朝鮮の妨害で失敗するなどと言われていたが、結局は普通に終わった。中国を嫌うあまりに、熱くなって北京大会の失敗を願うのは個人の自由だが、まずは競技やプレーの素晴らしさに熱くなりたいものである。          (仁の作品)





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我こそはKY

JUGEMテーマ:人生論

 「空気を読めない人」のことをKYというらしい。この言葉がいつ生まれたのかは定かではないが、かなり日本人の間に浸透しつつある。むしろ侵食しているといったほうが適切かもしれない。今は、何でもかんでもKYである。

 その場にふさわしくないことを少しでも発言しようものならKY、盛り上がっている飲み会を途中で退席してもKY、とにかく気に食わないやつは全てKY、なのである。多くの人はこの言葉を使って他人を攻撃すると同時に、その標的が自分に向けられることを日々恐れおののき、その「空気」とやらを読もう読もうと必死になり、戦戦恐恐としている。

 そもそも空気とは何なのだろうか?これを明確に定義できる人はおそらくいないだろう。にも関わらず、この言葉がここまで広まったのは何故だろう?それはおそらく「KY」が案外この社会に数多く存在しているせいであろう。それほど空気というものは実体がつかみにくく、わかりにくく、そう簡単に読めるものではない。そして、いつでも誰でも何処でも読めるとは限らない。それなのにどういうわけか、我々は他人に対して空気を読むことを強制し、自らもKYと呼ばれることを最も恐れる。

 確かに人の気持ちを思いやったり、議論の場でどういう議題が進行しているのかを読み取ったりすることは大切だ。しかし、こちらが相手に何かを伝えようとするからには、伝える側も伝えるための努力をしなくてはならない。

 私はこの「KY」という言葉がここまで広まっていることに違和感を感じる。そこには大衆迎合というよりも、全体主義といったニュアンスが含まれているように感じるからである。

 たとえば、10人くらいの間である議論が進行していて、ある結論が導かれたとする。しかしそのうちの一人が、その結論はどう考えても間違っていることに気づき、異議申し立てをするが、周りから「結論も出たんだから。空気を読めよ。」という一言で片付けられてしまう。これだけならまだ良い。私は極端な例を1941年12月に遡って想像してしまうのである。

 ABCD包囲網によって経済封鎖をされ、ハルノートを突きつけられ、もはや世論でも対米開戦やむなしという声が圧倒的多数を占める中、開戦が政府によって決定される。閣僚の中の一人が、「ちょっと待てよ、アメリカとの戦争はちょっと無謀じゃないか?」と発言しても、周りから「空気を読め」の一言で押し殺される・・・その後の日本が辿った道は記述するまでもない。                           
 この「KY」という言葉は、多数派への迎合を強制し、少数派を排除するという側面を持っている。少数派がどんなに正しいことを言っていようと、「KY」として排除されていくのである。この言葉は戦時中の「非国民」と同じような重い響きを有しているように、私には聞こえるのである。   
                                    (仁の作品)




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ニュースの時間

JUGEMテーマ:評論家気取り    (2008年2月 現在)

 夜の10時から11時にかけて各放送局は、その日一日にあった出来事をニュースで報道する。どのように放送しようと、それは放送局の勝手だ。しかしテレビ朝日の報道ステーションには我慢ならない。ここまで読めば、大抵の人は私が何を言いたいのか分かると思う。テレビ朝日は一体いつまであの古舘伊知朗を出演させるつもりなのだろうか?

 彼はしゃべりは旨いのだが、ニュースの出演者としての体を成していない。別に彼はニュースを読むわけでもなく、かといってニュースに対して専門的な視点からコメントをするわけでもない。はっきり言って素人の意見である。政治のニュースがあれば与党を非難し、事件事故のニュースがあれば加害者の悪口を言い、それを拡大解釈して「社会が悪くなっている」などと視聴者を不安にするようなことを言い出す。そして、事の詳細があまりよく分かってない段階であるにもかかわらず、「これは許せません」などと断定口調でバッサリ切り落とす。

 視聴者はそんなものを望んでいるのだろうか?少なくとも私は、彼の個人的な感想は別に聞きたいと思わない。専門家の意見を聞きたいし、もしくは誰のコメントも必要ないから、さっさと次のニュースに行って欲しい。まさかネタが無いから、古館がコメントを挟むことによって時間稼ぎをしているのだろうか?

 古舘の隣には、いつもだいたい朝日新聞論説委員の加藤千洋がいる。加藤は中国総局にいた人物で中国語は達者だ。ニュースに関してはかなり専門的な視点からコメントを出来るはずなのだが、当たり障りのない無難な発言が多く、時には古舘のコメントに同調してしまっている。彼の能力が生かしきれておらず、勿体無い気がするのは私だけだろうか?

 勝手な提案なのだが、ニュースを読む女性と、加藤解説委員というコンビでやったほうがもっとマシなニュースになるのではないだろうか?そして古舘自身もスポーツの実況などを中心にやったほうがいいのではないだろうか?

 このように酷いニュースは報道ステーションに限ったことではない。昼のワイドショーなどもそうだ。バラエティー的な要素を含むために、タレントが出演するのは結構なことだが、専門的なニュースをやっているときに、何も分かってないようなタレントに意見を求めてどうするつもりなのだろうか?それはそのタレントの意見だから自由だが、それを見た視聴者は、タレントのどんなに間違った見方でも、おそらく鵜呑みにしてしまうだろう。

 結論を述べると、古舘伊知朗はニュースのキャスターおよびコメンテーターとしての素質があるのかどうかと問われれば、おそらく無いと思う。我々視聴者はこのような社会不安を煽るニュースに惑わされることなく、政治家ばかりでなくメディアをも批判できるような目を持ちたいものである。      
                                   (仁の作品)




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その小川は竜となりて

JUGEMテーマ:中国関連

 NHKの「激流中国」が熱い。何が熱いかって、中国人の生活の細部にまでカメラが行き渡っていることだ。もちろんヤラセ的なものも多いだろうが、私が中国で実際に接したような性格の持ち主がたくさん出てくるのだ。まず印象に残ったものを挙げていこう。

 経済発展が進むチベットでの話しだった。チベットに進出した漢族(と思われる)ホテル経営者が、チベットの奥地へ出かけて、ホテルのロビーに飾れそうな古い仏像などを買い付けるのだった。このシーンには一種のやるせなさを感じた。現地の人にとってみたら崇拝の対象なのだが、この経営者にとってみたら商売の手段でしかない。貧しい人々が淡々と仏像を札束と交換するときの顔は無表情そのものだった。

 ある日、このホテルに一人のチベット人男性が従業員として雇われる。彼はホテルの入り口でチベットの伝統音楽を演奏し、外部からやってくる客たちに「チベットらしさ」とでも言うのか、その雰囲気を味わわせる仕事に就くのだった。また彼は経営者が仏像の買い付けに出かける時は、村の案内役として先導するのであった。

 給料日がやってきた。このチベット人男性は先月に比べて給料を4割も減額されていたのだ。理由を尋ねると、「音楽の演奏の能力が低い」とのことだった。男性は「何故だ!こりゃどういうことですか!!」と経理係に問い詰めるが、相手は「しょうがねえだろ」みたいな感じで突っぱねるばかり。確かにおかしいのである。経営者は明らかにチベット族ではない。(漢語もどこの方言か分からないくらい訛っているが。)なのに何故、男性の演奏の能力が低いことが分かるのだろうか?ホテル経営の悪化のツケを従業員に回しているとしか思えないくらいの理不尽さである。

 この会社は日本風の言い方で言えば完全にブラック企業である。直ちに訴えられて然るべきなのだが、男性はすぐに他の仕事先を探す決心をしたのだった。男性は上司にこう言い放った。「他の会社は平気で従業員の給料をカットしたりしないでしょう。あなた方のようにね。」

 この会社のスローガンは「団結 服従 高効率発展」だそうだ。日本語で聞くと酷く生々しい響きだ。従業員たちは朝礼のとき、全員右手を挙げてこの三つの言葉を叫ぶ。従業員たちの表情は真っ暗だ。経済は発展しているが、労働者たちの権利を守る法の整備はどうなっているのか、気がかりだ。こんなことを言うと語弊があるかもしれないが、ホテルなどの従業員は学歴の低い人々が多く、就職の際に必要な知識や情報をあまり持ち合わせていないケースが多いのではないだろうか。何も知らない若者を、狡猾な資本家が法外な低賃金で雇い入れるといった事例の典型ではないだろうか?日本のブラック企業が何も知らない学生を雇って重労働を強いるように。

 ここで驚いたのは、よくチベットに日本のカメラマンが入っていって、しかもホテル経営の現場を撮影できたもんだということである。外国人が中国を取材する時は、公安の許可が要るし、厳しい制限がつくものだ。ヤラセか?もしくは、中国が自国の矛盾を外国にさらけ出せるほどの余裕が出てきた証拠なのか?
                                 (仁の作品)




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点と線と面

JUGEMテーマ:エッセー・紀行文


 週末はビートたけし主演のドラマ「点と線」を見ていた。
 この作品は松本清張が1958年に小説として発表し、同年に映画化されている。
 小説と映画と、今回のドラマはかなりの相違点が見受けられた。
 小説では三原と鳥飼という二人の刑事が、遠方から手紙をやり取りして事件の真相を語るというものであったが、三原は「何とも後味の悪い事件です。」という言葉で締めくくっている。

 映画では二人の刑事は共に犯人の自殺現場に立ち会っている。
 そこで三原は、「今回の事件の犯人たちに同情の余地はない。どいつもこいつも身勝手な人間ばっかりだ。」と怒りを露にし、熱血な刑事として描かれている。
 さらにドラマでは、事件解決の直前に「犯人を殺さぬように逮捕しなさい。」との言葉を残して鳥飼は帰ってしまう。
 ここでは鳥飼はかなり短気なキャラクターで、三原に喰ってかかるシーンなどは映画にも小説にも見受けられなかった。

 またこのドラマでは4分間の空白というトリックに重点が置かれていた。
 小説の中の解説で述べられているように、映画や小説では、この4分間の空白の「穴」を見過ごしていた。
 東京駅の13番線から15番線が見渡せるという4分間に、15番線から博多行きの特急に乗り込む佐山とお時を、13番線から犯人の安田はわざと二人の女中に目撃させ、佐山とお時が恋人同士で九州に旅行に行っているように見せかけた、というものである。

 しかしこの特急は30分近くもそこに停車しており、どうやって4分の間にその二人を15番線にやって来させるのが可能であったのか。
 映画や小説ではここの説明がなかったのだ。
 ドラマでは「安田が、二人に強制的にその時間にホームを歩かせた。」となっている。

 この作品では、わが地元の香椎が出てくるが、さすがに50年経っているため、あの頃の面影は全くない。
 小説の中では、「香椎という小さな駅がある」とされているが、今ではもう駅ビルである。
 駅前の果物屋は某居酒屋チェーン店やパチンコに取って代わられ、佐山とお時の死体が見つかった海岸はすっかり埋め立てられ、昔の海岸線は国道3号線が走っている。
 西鉄香椎駅はつい最近高架工事が完成し、お時が「ずいぶん寂しい所ね」と言ったときから相当な時間が経っていることが窺えるものである。         (仁の作品)




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まがいもの天国

JUGEMテーマ:中国関連

 昨日の「新報道プレミアA」という番組で、中国の偽ブランド工場が特集されていた。
 櫻井よし子がいろいろとコメントしていたが、何を言ってたのかは忘れた。
 確かに中国は偽物が多いときくが、私は素人なので、本物と偽物をどう見分けるかは分からない。
 かく言う私も中国で偽物CDを「本物」として掴まされたことがある。
 偽ブランドをはじめ、偽CD、偽DVD、偽スポーツシューズ、偽ディズニーランド、偽満州国・・・などなど枚挙にいとまがない。
 それにしても、中国政府がオリンピックへ向けて、これだけ大規模に偽物市場を摘発しているにも関わらず、偽者作りがまかり通るのは何故だろう?

 先進国で豊かに暮らす我々が、発展途上国に向かって、「偽物を作るのはやめろ!」と声高に叫ぶのは簡単なことである。
 しかし偽物を作っている当人にとってみれば、偽物だろうと何だろうと、とにかく何でも作って売らなければ生きていけないような社会構造があるためではないだろうか?
 もちろん偽物作りをかばうわけではないが。

 そこにはおそらく、法律をクソまじめに守っていたら生きていけないという現実があるのではないだろうか。 
 これは昔の日本でも同じだった。
 終戦直後、人々は食料に喘いでおり、米を買うのに必死だった。
 「はだしのゲン」の中には、政府の許可がおりていない所謂「ヤミ米」を、警察が庶民から没収するというシーンがある。
 ゲンはたまりかねて、警察にこう食ってかかるのである。
 「クソッタレ!国も法律もあるか!!わしら明日、生きるか死ぬかと苦しんどるんじゃ!」

 明日は食えるかどうかも分からないのに、偽者作りで生計をつないでいる人々は、法律を守れば確実に行き場を失う。
 昔から中国には「上に政策、下に対策」という言葉があるように、為政者に考えがあれば、一般庶民もその対抗策を講じてきた。
 偽物を作る側と、それを追いかける側の果てしないイタチごっこは、おそらくこれからも続くのではないだろうか。                     (仁の作品)




※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=62

兵士たちの戦争

JUGEMテーマ:エッセー・紀行文


 最近、NHKで「兵士たちの戦争」という番組がシリーズで放送されている。
 なかなか興味深い番組で、言ってることも的を射ている。
 戦争体験者の証言をもとに、あの戦争は一体何だったのかを考えるのがテーマだ。
 そのエンディングでは、ナレーターがこうまとめている。

 「軍事的に意味のない作戦を敢行した軍指導部。
 作戦が失敗しても、誰一人として処罰を受けることのなかった無責任さ。
 それ故に発生した膨大な犠牲。
 この結果はあまりに悲惨と言わざるを得ない。」

 我々はよく「平和は尊い」だとか「戦争はいけない」などと知ったように口走るが、そんなことはみんな分かっているのである。
 しかし戦争が起こってしまった以上、兵士たちは戦争に行かなければならない。
 兵士たちを統率する軍指導部は、いかに犠牲を少なくして目的を達成するかを考えなければならない。
 そして彼らの行う軍事行動は、作戦上意味のあるものでなければならない。
 そうでなければ、仮に犠牲者が出た場合には、その兵士は無駄死にしたことになってしまう。
 
 経済学に例えて言えば、作戦が成功して手に入れる成果が「収入」、止むを得ずに発生する犠牲は「費用」、総合的に見て得られたものを「純利益」と呼ぶ。
 戦争で「収入」を得るために「費用」を投入しても、「純利益」が得られなければ、それは結果的に「赤字」となる。
 人名を数値で例えることには抵抗があるが、戦争指導部にこの「赤字」を補填する能力があったのかと問われれば、答えは「ノー」だろう。
 
 あの太平洋戦争で最も問題だったのは、この番組が指摘するように「慢性的な赤字」=「不必要な犠牲者の多さ」だったと思う。
 その「経営」のまずさがここまで「赤字」を深刻化させたことは疑う余地がない。
 しかも「経営」が失敗したにも関わらず、誰も処罰を受けていないこの矛盾。
 国の金を横領したのに誰も逮捕されていないという、現在のどこかの公的機関とそっくりではないか。
 このような無責任体質は日本の伝統なのか?

 (仁の作品)




※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=54

叩き売り

JUGEMテーマ:エッセー・紀行文


 外国を叩くメディアは受けがいい、なんていうのは無意味な仮説だろうか?
 テレビや新聞で、近隣諸国を叩く評論家やコメンテーターが最近やたら登場しているような気がする。
 
 7月23日の読売新聞のコラムでは、「八」という漢字に関する日本と中国での捉え方の違いについて書かれてあった。
 中国では「八」という漢字は、広東語で「発」と同じで、「発財」つまり「お金が儲かる」という意味を含む縁起の良い文字であるという。
 (ちなみに私は広東語はよく知らないが、北京語なら多少は知識がある。北京語では「八」は「ba」、「発」は「fa」なので発音は異なる。まあ、この際どうでもいいが。)
 
 それに引っ掛けて、このコラムでは北京オリンピックに向けての中国のあり方を批判している。

 『ルール違反、モラル欠如の「発財」主義はもってのほかだ。有毒物質を含む食品や日用品が中国から大量輸出され、世界中で問題になっている。北京での「段ボール入り肉まん」報道もねつ造だった。視聴率稼ぎという点で、「発財」主義と同根と言えるだろう。』

 言いたいことは分かるし、環境破壊や捏造事件は大問題だ。
 しかし、このような事は日本でも起きていたことに関しては全く触れられていないのは何故だろう?
 

 高度経済成長の時代、日本ではイタイイタイ病などの四大公害が発生した。
 外国には被害はなかった、という反論があるかもしれないが、そういう問題ではない。
 そして関西テレビが「納豆は体にいい」とのデマを流したのは、つい最近のことである。 
 日本企業にもこのような「ルール違反、モラル欠如の発財主義」があったことは否めない。
 これらのことは日本の戦後史をちょっと学べば分かるはずなのだが。
 

 これらの問題は、ただ単に中国だけの問題と捉えるのではなく、人類全体の問題として捉えるべきではないのだろうか?
 一国で起こりうることは、どこの国でも起こりうる。
 自国のことには触れず中国を批判して、読者に受けのいいことを言い、新聞の売り上げを伸ばしたいのなら、それを「都合のよい発財主義」と言わずして何と呼ぶのだろうか?
                                  (仁の作品)



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=36

封殺

JUGEMテーマ:エッセー・紀行文

 
 (2007年7月5日 現在)
 日本とは本当に言論の自由がない社会であるとつくづく感じる。
 久間防衛大臣が「原爆しょうがない」発言で辞任してしまった。
 何もやめることはなかったのに、と思うが、やめてしまったものは「しょうがない」。

 とは言うものの、私は別に久間防衛大臣の意見には賛成していない。
 今回感じたのは、大臣の発言に対する野党や世論の過剰反応だった。
 大臣の意見が間違っていると思うなら、正々堂々と反論すれば良い。
 発言が不適切だからといって辞任に追い込むのは、前近代的な魔女狩りか、どこぞの国の人民裁判に匹敵する恐怖政治の典型である。

 こんなことで大臣を辞任させられるなら、柳沢厚生労働大臣の「女性は子を産む機械」発言の方がよっぽど問題である。
 

 第一、久間氏はなぜこんなことを言ったのだろうか?
 この一連の発言のあと、彼は次のように弁解していた。
 「結果として原爆は落ちてしまったんだし、戦争は終わったんだし、今更ジタバタ言ってもしょうがないじゃないか、ということを言いたかった。」
 それならそれで話は通じる。
 しかし彼はその後こんなことを言っていた。
 「原爆投下が戦争を早めたのは事実。」
 結局は、原爆は戦争を終わらせるためには止むを得なかったという主旨の発言をしていた。

 そこで私はこの意見に真っ向から反論したい。
 前述の通り、私はこの意見には反対する。
 原爆投下が戦争を早めたというならば、どんなに恐ろしい化学兵器を使ってでも戦争さえ終わらせることができたならば、その化学兵器の使用は正当化される。
 要するに、サリンなどの毒ガスを使って敵国の民間人を殺そうと、敵国の主要都市を無差別爆撃で攻撃しようと、敵国を降伏に追い込みさえすれば、それらの行為は正当化される、という理論が成り立つ。

 アメリカの政治家の中には、「原爆投下によって戦争が終結し、多くの日本人が命を救われた」などと素っ頓狂な発言をした人もいるが、よく考えてみよう。
 この発言は、蒋介石を降伏させるために、重慶の一般市民を無差別爆撃した日本軍のやり方や、スペイン政府軍を降伏させるためにゲルニカを無差別爆撃したフランコ将軍の手法を弁護する言い分である。
 「ゲルニカ爆撃により、政府軍は降伏し、多くのスペイン人の命が救われた」などと言われて誰が納得するだろうか?
 「蒋介石を降伏に追い込むために重慶を爆撃し、多くの中国人の命を救いたかった。」などと日本の政治家が発言しようものなら、おそらく北京の日本大使館周辺は暴徒によって火の海と化すだろう。

 久間大臣の今回の発言はこれらの素っ頓狂な理論を弁護するものでしかなく、原爆は決して「しょうがない」「止むを得ない」という言葉で片付けられるものではない。
 そして野党議員やマスコミも「辞任しろ」と連呼するのではなく、もう少し本人を理論的に追い詰めるくらいのマトモな反論をしてほしかった。
 議論が不十分なままで、久間大臣が表舞台から去っていったことは非常に残念である。
                                  (仁の作品)




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地震と津波

   JUGEMテーマ:自然と共に生きる


   (2007年一月現在)
 地震と聞けばやはり福岡に住むものとしては、すぐに2年前の西方沖地震を思い出す。あの時著者は夜勤あけで寝床についていた。気持ちよくまどろみかけていた時突然グラグラっと大きな揺れが襲ってきた。テレビはキャビネットから滑り落ち、本棚の上に置いてあったカセットテープのケースが6箱まとめて著者の顔面に向かって落ちてきた。あの時寝入っていたらと思うと今でもゾッとする。

 すぐ住んでいるアパートの外に出たが、福岡の人はあまり地震を経験していないので、緊張感がないせいか、出てきた人間はわずかに4人だけだった。もしかしたらうちのアパートの人はほとんど仕事に行っていて留守なのかと思い通りを眺めたがやはりわれわれ以外誰も出てきていなかった。この時著者は、地震そのものよりも地域の人の防災意識の低さの方が恐ろしいと感じた。
 

 幸い市内では大した数の死傷者を出さなかったが、将来もっと大きな地震が襲って来ないとは限らないだろう。そのこと考えれば、日頃から地域や会社、学校ぐるみで防災意識を高めるためのセミナー等を定期的に開くとともに現実に即した緊張感の伴った避難訓練を行うべきだろう。この点については行政の猛省を促したい。
 

 災害が起こってからでは、手遅れだからである。
 


 次に、津波と聞いて思い出すのはなんと言っても、2004年12月26日に起きたインドネシア西部、スマトラ島沖で起きた巨大地震により起きた津波である。これはインド洋沿岸諸国で30万人を超える死者と150万人の避難者を出す過去最大最悪の津波大災害となってしまった。
 

 著者自身は津波というものをまだ自分自身の身で経験したことがないので、断定的なものの言い方は避けたいが、やはりこれは天災というより人災の面もあるのではないだろうか。一つには一般市民の防災意識の低さである。もう一つは津波警報システムの不整備だろう。著者の得た情報によるとインドネシアでも太平洋側はたびたび津波襲来を経験しているので、地震後の津波に対する警戒心があったようだが、インド洋側は最近津波被害がほとんど無かったため津波警報システムが整備されていなかったそうである。
 

  「治において乱を忘れず」とは中国の易経の言葉である。これは、平和な時代にあっても常に戦時の心がけを維持しておけ、という意味である。同様のことは地震や津波などの天変地異についても言えるのではなかろうか?




※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=26

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