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モノ作り日記



(2007年12月12日 現在)

 私は現在、研究テーマを追うための一環として、「生産関数」の勉強をしている。モノを作るためには、手段が必要である。その手段とは、大まかに分類して、道具と労働力である。例えば、この文章も、パソコンという道具と、私という労働力を投入して出来上がる。それを経済学では、資本と労働という表現をする。

 資本と労働を投入してできたものが生産物であるが、これを出来るだけ多く作るにはどうすればいいだろうか?投入物である資本と労働は、その数が限られているため、どのような比率でこれらを投入するのかということが問題となる。数学者のコブと経済学者のダグラスは、これらの問題を数学で解き明かそうとして、コブ・ダグラス型生産関数が発明された。その後、この関数は多くの経済問題において応用されたが、やがて幾多の学者たちから、その限界を指摘された。そして今ではその限界を克服したCES型生産関数、トランスログ型生産関数など、数多くの生産関数が発明されるに至った。
 
 生産関数では、生産をできるだけ多くしようと試みるが、ただ多く生産できれば良いというものでもない。異常にコストがかかっていたりすると、それは非効率と呼ぶべきもので、歓迎すべきものではない。ここで、生産量を労働者の数で割った数、つまり一人当たりの生産量がどれほどなのかが問題となる。これを経済学では労働生産性と呼んでいる。例えば、去年の労働生産性は10だったものが、今年は20だったとしたら、労働生産性が上がり、生産の効率性がアップしていることを意味する。
 
 日本の政治を見ていたら、「非生産的」で「非効率」なことが多いことに気づく。安倍政権下で行われた「美しい国づくり企画会議」という怪しげな名の会議は、たった二回の開催でウン千万円という巨額の資金が投じられたという。しかし、その結果どのようなものが「生産」されたのか、我々は知る由もない。そうこうしているうちに安倍政権は崩壊し、その労働生産性は限りなく小さいものになってしまったようだ。むしろマイナスにさえなったのかもしれない。まるで他人の噂ばなしに多大な時間を費やす近所の井戸端会議のようで、不毛な生産関数というほかない。
 (仁の作品)




個人の発言が封じられる恐怖政治

JUGEMテーマ:日本の危機を救え  (2007年12月4日 現在)

 宮崎県の東国原知事が、「徴兵制はあってしかるべき」という発言を行って、社民党の県議連から抗議を受けたあげくに謝罪したそうである。こないだの久間元防衛大臣の「原爆しょうがない」発言を見てても思うが、日本という国は本当に「モノ言えば唇寒し」である。彼らの発言内容が気に食わないというのは個人の自由だ。しかし、それを言ったからといって辞任に追い込んだり、謝罪をさせたりというのは、あまりに理不尽というしかない。社民党の県議連も、知事が間違っていると思うならば、理論で説得させればよい。反論もできないならば、政治家なんかやる資格がないのではないだろうか。

 確かに若者の体たらくを見ていると、いっぺん自衛隊でも行ってシゴかれてこい、と感じる大人の気持ちも分かるというものだ。しかも、徴兵制度ができたからといって、今すぐに戦争が始まるわけでもないし、強大な軍事力を持つ日本に攻め入りたいなどと本気で思っている国はなきに等しい。しかし、今の日本の人口構造から見ても、徴兵制は国家の財政を圧迫しかねない制度であり、そう簡単には実現しないだろう。

 知事は今回、この発言を「不適切だった」として謝罪したそうだが、そもそも適切な発言とはどんな発言なのだろう?社民党の嗜好に合うような発言だというなら話は分かるが…。社民党の県議連は、今後もこのような発言を行うような政治家に対しては辞任や謝罪を要求するのだろうか?そんなスターリンのような恐怖政治が行われたら、日本の前途は暗いといわざるを得ない。とにかく政治家の皆さんには、もっと建設的な議論を行ってほしいものである。(仁の作品)





※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=66

思い出のアナタへ

 日本の政治が今、猛烈な勢いで動いている。
 安倍内閣の改造があったと思ったら、昨日の首相の辞任。
 さらには次期首相候補の名前が続々と挙がる一方で首相の入院…と目を瞑る余裕すら与えてくれない。
 安倍晋三は日本国民にとってもはや「思い出の人」となりつつある。

 小泉内閣時代はあれだけ力を発揮して生き生きしていた男だったが、首相になってからは何となく力がないように思われて仕方なかった。
 ある政治家の話によると、安倍という人物は「根回し」がうまいそうである。
 ということは、人の上に立って働くよりも、人の下で動いているほうが性に合っていたのではないだろうか?
 いいサッカー選手が、必ずしもいい監督になるわけではない、という事が言われているように、人にはそれぞれ自分に合った地位というのがある。
 
 小泉時代、安倍は北朝鮮による拉致問題などへの取り組みで頭角を表してきたと記憶している。
 その言葉には説得力があり、頼もしさを感じた。
 しかし総理就任の前後から、「美しい国日本」などと浮世離れしたことを言い出す。
 小泉に比べてカリスマ性も欠け、言葉の口調も徐々に説得力を失い、その威厳は私の中で確実に失墜していった。
 国会の答弁では、質問者に対して感情的に逆ギレするような場面もあった。
 小泉のようにマイペースな口調で「自衛隊のいるところが非戦闘地域でえーす」などと余裕の返しをすることもなかったように思われる。(この小泉の無責任な発言ぶりもどうかと思うが・・・)
 
 安倍は小泉とは全く別のキャラクターであったことは間違いない。
 いまさら言うのも遅いが、やはり彼には彼のポジションがあったのである。
 彼のこの一年程の姿を見てきて、やはり人間には三種類いるのだなと感じた。
 小泉のように、組織の上に立って力を発揮する人間。
 安倍のように、組織の中で力を発揮する人間。
 そして私のように、組織とは無縁のところで生きていく人間、である。

 (仁の作品)



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=45

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