最初は、中国に行ったばかりの頃、大学の同僚とバスに乗り、二人で一番後ろの席に座っていた時のことである。その時は、私の右隣の席が空いていて、私は私の左側に座った女性の同僚の方に顔を向けて話し込んでいた。彼女と話始めて暫くした頃、前方に向かって左側の後部座席に座っていた男が、急に私の右側に移動してきた。
瞬間的に彼の行動の不自然さを感じた私は、左側の席に座っている同僚と話しながらも、武道で鍛えた周辺視覚を使って、彼の行動をそれとなく監視していた。案の上、彼は、腕組みをしている右手を左手の下から、私の右側のポケットに、向かって伸ばし始めた。
私は、彼の顔は一切見ることなく、私の右ポケットに伸びて来た彼の右手を上から見下ろして,ニヤーっと笑ってみせた。件のスリ君は慌てて右手を引っ込めた。
すると後部座席に座っていた別の男が、彼に中国語で何かを言った。何と言ったのか,その頃の私はあまり中国語に堪能ではなかったので、聞き取れなかったが、どうも「降りるバス停が来たから、降りるぞ。」と言ったようだった。
彼らは、二人してバスを降りて行った。恐らく、私の右ポケットから掏った物は、もう一人の男が受け取る手筈だったのだろう。スリというのは、スリの技術もさることながら、かなりの知能犯でもある。私が、左側に座った同僚と話しているところを狙ったのは、さすがである。
左側に注意を向けていれば、当然右側に対する注意が疎かになることを彼らは、ちゃんと知っていた。
二度目にスリにあったのは、軽軌(チングイ)と呼ばれる小型電車に乗った時のことである。私が右手で吊革に掴まっていると、私の右側に立っていた男が私の右ポケットに実に自然な感じで手を近付けてきた。
最初の時と同じように違和感を感じた私は、右手に気を込めて彼が私のポケットに手を突っ込んでくる瞬間を待っていた。私が前方の景色に見とれる振りをしていると彼は、実に自然な感じでポケットに手を突っ込もうとした。
今か今かと待ち構えていた私は、右腕の力を全て抜いて、彼の前腕にボトンと言った感じで落とした。こういう落とし方をすると、打たれた方はかなり痛い。彼は一瞬「ウッ!」っと言った感じで眉を顰めたが、あたかも次の駅で降りるかのような顔をして私から、これまた実に自然に離れて行った。
こういう連中は、プロである。プロは窃盗の技術ばかりでなく、逃げ方もうまい。失敗したり、危ないと感じた時は、自然に、実に自然にその場から離れていく。
私が、友人たちと一緒に上海に旅行した時に見た置き引きもそうであった。
私たちが、上海空港に着くと、そこで迎えに来てくれているはずの友人がいない。電話を掛けてみると、彼は違うターミナルで私たちを待っていた。すぐ私たちのいるターミナルに来てくれることになったので、私たちは、荷物を床に置いて彼が来るのを待つことにした。
私たち一行は三人連れだった。一人が、トイレに行った。彼がトイレに入った途端に私もトイレに行きたくなった。連れの女性に「私もトイレに行ってきます。」と断ってその場を離れようとした。
するとそれまで床に置いた私たちの荷物の方を向いていたその女性が、くるりと荷物に背を向けて携帯電話で友人と話を始めたのである。それを横目で見ながら、私はトイレの方に向って歩き始めたが、どうしても彼女の不用心な行動が気になって仕方がなかったので、トイレに向かう途中で、何気なく彼女の方を振り返った。
私が予想したとおり、私たちのすぐそばに並んでいた人の列から、旅行者風の服装をした男が我々の荷物を見ながら、近づいているのが見えた。私が、足を止めて彼を見ていると、その男は私の視線に気づき目をあげて一瞬こちらを見たが、すぐに何気ない仕草で元の旅行者の列に戻って行った。
私は、トイレには行かずにすぐにその場に戻り、今し方見たことを彼女に告げて、決して荷物に背を向けたりしないように注意した。
中国には、ホントにスリや置き引きが多い。私の以前の同僚は、靴屋で靴を椅子に座って試着しようとして、自分のバッグを横に置いて一瞬目を離した隙に盗まれた、と言っていた。彼女は自分の左側をほんの一瞬見ただけである。
因みに盗まれたのはブランドものの20万円ほどするバッグである。しかも、現金・カード・携帯電話が入っていたのでその後が大変だったらしい。かなり鮮やかな手口なので、もしかしたら店の人間もグルだったのかもしれない。
私が大学で教えていた学生は、満員バスに乗って自分の傍でイチャツイていたカップルに目を奪われたいた隙に、肩に掛けていたバッグを刃物で切られ、携帯電話と財布を盗まれたと言っていた。まさに油断大敵である。また、ある日本語教師は、中国に来たばかりの頃、バスから降りて尻ポケットから財布を出そうとして、ポケット自体がないことに気がついた。バスの中で、スリにポケットを切り取られたのである。
こういう例は、枚挙に暇がない。初めて海外旅行に出かけられる方々は、十分ご注意なさるべきである。