疲れについて

JUGEMテーマ:仕事のヒント

 10月21日(2012年)に、翔君が「疲れないカラダ」という記事を書いてくれました。さすが翔君です。私が武道の稽古で教えた事からエッセンスを抽出し、それを仕事や生活にすぐ応用できるところが彼の凄いところです。


 脱力については翔君が既に述べてくれたので、私は、また別の観点から、この分野について述べてみたいと思います。

 ここで、私が皆様方に述べたい事は、二つあります。


 まず第一は、人間は、自分の好きな事をやっている時は、疲れないものだということです。

 何の本で読んだか忘れましたが、こういう話を読んだ事があります。たしか鉱物の調査のため山に入った学者と軍人たちの話でした。軍人たちは、学者たちの護衛か何かだったのでしょう。

 面白いのは、山を歩き回っている間、疲労の色を見せていたのは、普段カラダを鍛えているはずの軍人たちで、学者たちは全く疲れを見せなかった事です。理由は、単純です。先ほども述べさせて頂いたように、人間は好きな事をやっている時は、疲れないものだからです。逆に、好きでもなんでもない事を長時間やらされると、かなり疲れが出て来ます。この軍人たちが、そのいい例です。

 私自身、同じ経験をした事があります。大学を卒業してから、バイトをしながら、自分の好きな事をやっていた時の事です。バイトは、せいぜい3時間から5時間でした。それでも、仕事が終るとかなり消耗していました。当然ですね。生活費を稼ぐためにイヤイヤやっていただけの仕事ですから、当然疲れます。労働が、苦役でしかなかったんですね。

 バイトがない時は、私塾で教えたり、自分の道場で指導や稽古をしていました。ある夏の日、柔術の先生が、出張指導に大学まで出て来てくれました。午前中、先生に稽古をつけてもらい、軽い昼食を摂り、午後は後輩と海に行き、海岸で剛柔流空手の三戦を稽古し、泳ぎました。帰って来て、夕食を摂り、そのまま空手道場へ行き、また夜9時まで稽古しました。不思議な事に、全く疲れを感じる事はありませんでした。

 若かったというのもあるんでしょうが、やはり、疲れ知らずに動けた最大の原因は、自分が一番やりたい事をやっていたからだと思います。


 とは言っても、誰もが自分のやりたい事を仕事にできるわけではありません。キングスレイ・ウォード氏も仰っておられるように、好きな仕事をやらせてもらう前に、まず嫌でたまらない仕事をやらされるのが、世の常でしょうから。

 でも、そんな場合でも、最初から仕事を嫌わないで、その仕事に喜びを見出す努力はできます。最初は、嫌でたまらなかった仕事も、色々工夫して、そこに喜びを見出せれば、仕事の疲れは、幾分かは軽減できます。

 問題は、トップや上司・指導者が、無能な場合です。こういう場合は、仕事そのものより、上の無能さに振り回されて、仕事に喜びを見致す事が殆ど不可能になってしまいます。

 こういう時は、禅で言うところの「絶対の現在に生きる」哲学を仕事場で実践するしか他に、仕事を楽にする方法はありません。今、目の前にある仕事に集中し、それが終れば次の仕事に集中する。淡々と作業を行う事で時間を忘れる努力をすることで、多少は疲れを減少させる事が出来るでしょう。



 次に私が述べたい事は、仕事中の動作に踊りの要素を取り入れると、疲れがかなり軽減できると言う事です。

 確か学生の頃だったと思います。新聞に、一人の和服姿の女性の写真が載っていました。彼女は、東京タワーの喫茶店かレストランのウェイトレスさんでした。その写真を見ると、彼女は40代後半から50代前半にしか見えませんでした。その記事が手元にないので、正確な文章は忘れてしまいましたが、確かこんな事が書いてありました。

 「年齢を聞いて、驚いた。彼女は、70歳だそうである。どう見ても、50にしか見えない。『若さを保つ秘訣は?』と尋ねると、彼女は『ダンスです。』と答えた。若い頃から、ダンスが好きで、今も練習を欠かさず、働いている時は、ダンスをしているつもりで給仕をしているので全く疲れを感じないとのことである。」

 西洋ダンスに限らず、あらゆる舞踏は、その動きに切れ目がないので、ダンス経験者の動きには、無駄と言うものがあまりないのです。したがって、労働時にも最も効率的に動く事ができるというわけです。しかも、本人は働いているというよりも、踊っているつもりなので、自然にカラダも心もウキウキしてくるのです。

 上記の女性にとって、労働はもはや、生活のためにイヤイヤやっている苦役ではなく、喜びそのものに他ならなかったのでしょう。老けない筈です。

 私も、同じことをやっている人を三人ほど見たことがあります。一人目は、踊りの経験者で、もう一人は、中国拳法の経験者、そして三人目は名取を目指して踊りを稽古中の人でした。三人の中で、一番生き生きと疲れを見せずに働いていたのは、三人目の人でした。

 上記の記事を読み、踊りを労働に取り入れていた人たちを目の前で見た私自身、これをハンバーガーショップで働いていた時に、試してみた事があります。確かに、踊っているつもりで動くと、かなり仕事が楽になり、仕事を楽しめるようになりました。

 この記事が、些かなりとも皆様方の役に立つことがあれば、これに勝る喜びはありません。お仕事、お疲れ様です。

 Good night. C U in our dream !


※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1137





 

 
 
 


 

 


疲れないカラダ

JUGEMテーマ:仕事のヒント


   久しぶりの更新となりました。共同執筆者の翔です。

 同じく共同執筆者の龍氏が5年間の中国での生活を経て、今年の夏に帰国されました。
この間私は某空手道場に在籍し鍛錬を積んでおりましたが、久しぶりに龍氏に動きを見てもらったところ、そのあまりの「硬さ」に呆れられることとなりました。

 「剛」と「柔」でいえばあきらかに「剛」の動きであり、この5年間で前蹴り一つをとっても筋肉に頼った非常に硬い蹴りとなってしまっていたのです。

 「朱に交われば赤くなる」という言葉がありますが、知らず知らずのうちに在籍している空手道場で力に頼る動きを身に付けてしまったようです。

 そもそも、攻撃はいい意味で「だらくさ」に、そして防御は相手とぶつからずに受け流すものであるべきです。それをいつの間にか忘れてしまっていたようです。

 力を抜いた「脱力の動き」は、その響きからしてあまりに弱々しく感じられますが、体の芯ができた状態では非常に大きな力を発揮します。たとえば一回一回力を入れて突きや蹴りを行うと、技と技の間に「切れ目」が生じてしまいます。これは大きな隙となり危険であるばかりか、たとえ当たったとしても腕だけ、足だけの攻撃に終始するために相手に対してフィジカルで負けている場合は大したダメージを与えることができません。そして言うまでもなく、全身に力を入れて動けばすぐにスタミナ切れを起こしてしまいます。
 
 龍氏は私のあまりの力の入りようを見かねて、ここしばらくはジムにて「脱力」と「柔の動き」のトレーニングを施してくれています。

 そしてこれは日常生活にてすぐに効果を発揮し始めました。学校教師という職業柄、45分間の授業が一つ終わるごとに疲れがたまっていくのですが、時々爽快感を伴ってむしろ元気になるときがあります。後者のときは生徒とともに、楽しみながら、健全な笑いのある授業をしたあとであるのに対し、疲労が蓄積する時というのは、必ず生真面目で一本調子の授業をやったあとなのです。

 これに気付いたのは今さらという感じではありますが、5年ぶりの龍氏による脱力の指導を受けなければ、「仕事は疲れて当たり前」だと思い続けていたでしょう。

 いつ、いかなるときでも体に余計な力が入っていないことをセルフモニタリングしながら一日を過ごすようになり、ずいぶん疲れにくい体になりました。さすがに「完全に疲れない」と言える段階まで到達するにはまだまだ時間がかりそうですが、自分が肩の力を抜くだけでも、生徒も安心して授業を聞く余裕を持てているように感じます。

 生徒は教師の鏡です。教師の姿がそのまま生徒に反映されます。特に若手教師はなめられまいと虚勢を張り、生徒に対してバリアを張りがちですが、こんなことをすれば生徒との関係はぎくしゃくし、授業にも活気は生まれません。

 今、仕事で部下をお持ちの方もぜひ、脱力で、そして自然体で彼、彼女らに接してみてください。部下はあなたの鏡です。バリアを張ることなく、力を抜いて、「気の自然な交流」をしてほしいと思います。自然な笑いが出るようであれば、大丈夫です。
                                (翔の作品)



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1115
 

仕事で悩む人のために

JUGEMテーマ:人生論


 
いつの頃からか、邦画ばかり見るようになった。
自分だけ楽しんでいては勿体ないので、その中から選別して紹介。

今から紹介する映画には、いずれも「自分の仕事について悩む若者」が登場する。

■『息子』(1991年)
監督:山田洋次
主演:永瀬正敏、三国連太郎

何事にも飽きっぽく、転職ばかりしている男が登場する。
仕事をする気もあるし、仕事をしなければ生きていけないことも重々承知している。
そんな彼が、田舎に帰省した際に、父からこんな言葉をもらう。
「仕事というのは、気に入るか気に入らないかではないんだ。長く続けて、手に職をつける事に意味があるんだ。」
主人公は東京に戻り、わざとキツイ仕事を見つけ、それに打ち込み始める・・・

■『赤ひげ』(1965年)
監督:黒澤明
主演:加山雄三、三船敏郎

エリート教育を受けた医者のタマゴが、寂れた診療所に配属される。
初めは「何でオレがこんなところに…」と不貞腐れるのだが、いざ仕事をしてみると、意外に何もできない。
却って同僚や上司に迷惑をかけてしまう始末。
それに比べて、あらゆる事から貪欲に学ぼうとする上司の姿。
主人公は我が身の小ささを知って謙虚な姿勢を取り戻し、医者の本来の使命に立ち返ろうとする。

■『早春』(1956年)
監督:小津安二郎
主演:池部良、淡島千景

仕事にも慣れ、夫婦生活もマンネリ化、というよくありがちな境遇のサラリーマンが主人公。
毎日同じ時間に起き、同じ電車に乗って、同じ顔を見ながら仕事して・・・そんな在り来たりな毎日に嫌気が差し、ついに浮気に走り、それが妻にバレて夫婦関係は急速に悪化。
そんな中、自営業で苦労している昔の戦友や、病気療養中で瀕死の同僚に会い、自分がどれだけ恵まれた境遇にいたのかを再確認する。
妻との関係を修復させ、転勤の地で二人でゼロからスタートしようと決心する。



以上、駆け足ながら3つの映画を紹介してきた。
いずれも共通しているのは、現状に不満を持っているという事だ。
斯く言う私も、今の仕事は正直言って好きではない。
「何が楽しくてこんな事やってるんだろう?」と思うこともしばしばである。

ところが、よくよくここで考えてみる。
「今の仕事が見つかる前、私は一体何を考えていたのだろう?」

答えは簡単だった。
「早く仕事をしたい」という事に尽きる。
その理由は、お金という生活の手段を得ると共に、「あなたも食いぶちを自分で稼いでいるんですね」という他者からの存在承認である。

勿論、地獄のような激務で、心を痛める非人間的な職場に齧りつくのが良い事だとも言えない。
しかし少なくとも、自分の現状を客観視する事は大切だ。

上記の映画に登場する人物たちは、時代は異なるものの、今の若者たちと共通する悩みを抱えている。
タイトルは「仕事へ悩む人たちへ」としたが、正直言って、これらの映画を観たからと言って、悩みが解決されるとは思えない。
せいぜいヒントを与えるくらいか、もしくは更に悩みの泥沼へと踏み込む可能性だってある。
しかし、悩みというものは三者三様。
万人に適用できる処方箋などあるわけない。
これらの映画を観て、自分自身とオーバーラップさせ、何がしかの答えが見つけて頂ければ幸いである。 
                               (仁の作品)


※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=422

終わりを意識する

JUGEMテーマ:仕事のヒント


 際限のない仕事のループにはまってしまうと、肉体よりも先に精神的に疲弊してしまいます。

 しかし仕事に限らず、いつ終わりが来るのか見当がつかないようなことは日常生活の中に溢れています。たとえば勉強には終わりがありません。そして武道の鍛錬にも終わりがありません。そのような果てのない大地を歩きながら、ふと何が自分を動かし続けているのかを考えたことがあります。

 それは「将来こうなっていたい」といったセルフイメージからだけではなく、そしてその取り組む対象に強い関心があるだけでもありません。私にとって「一つの終わり」が自分の中で明確であるというのが、継続し続けられる一番の理由なのだと思っています。

 空手にしても稽古を週に2日、何年も続けることができるでしょうか。いくら好きなことであったとしても、途中で気持ちのマンネリ化が必ず起こります。しかしながら空手には昇級・昇段という明確な一つの到達点があります。そのゴール、すなわちひとときの終息があるからこそ、特に試験が近づくにつれより熱の入った取り組みができるのだと思います。

 現在の仕事は高校の教員であり、クラス担任をしていますが、学校のシステムというのは本当によくできているとつくづく感心します。まず授業の50分+休憩10分 ×6時間という構成は、生徒・教員の双方にとって気持ちの新鮮さを保ち続けるには大変理にかなったものだと思います。50分という枠があるからこそ、導入から展開、そしてクライマックスへ向けての集中力のアップができ、その時間が意義のあるものとなります。もしただ6時間、同じ教科を学ぶということになった場合、生徒も教員も精神的にかなりしんどいものになるはずです。実際、50分という明確な終わりのある中で、しかもクラスを変えて授業を行うと時間の経つのが本当に早く感じられます。

 また学期制というのも実に良くできています。いつまで頑張れば良いかということが分かるからこそ、もうひと頑張りしよう、というエネルギーが沸いてくるのです。特にクラス担任をしていると、3月の終業式という一つの終わりがあるため、どんなにきつい状況であってもそこまで辿り着こうとあきらめずに頑張れます。つまり「終わり」とは「希望」と言い換えることもできます。

 以前あるテレビ番組で見ましたが、その中ではある冒険隊がグリーンランドの氷の大地を徒歩で横断しようと試みていました。しかしときに前方は吹雪のため遠くまで見渡すことができず、ただただひたすらに歩みを進めるのみでした。そのような中で精神的に疲弊していく隊員たちでしたが、目の前にかすかに基地のような建物が見えたとき、なんと隊員たちの体温が急に上昇したのです。希望というものがいかに人にエネルギーを与えるのかを垣間見れた瞬間でした。

 この「終わり」というものは自分が何かを学び身につける際には必ず明確であるべきです。そして自分が指導者として人に関わるときには、必ず意識させるべきものでもあります。

 私ももうすぐクラス担任として今の学年が終わります。3月の後半にはこの1年の流れに区切りを入れ、リセットする意味で海外に足を伸ばそうと考えています。新たな始まりに向けて。                                                                               
                                                                                                    (翔の作品)


※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=316

感じとる力

JUGEMテーマ:仕事のヒント


  ブルース・リーの「燃えよドラゴン」における有名なセリフに "Don't think.  Feel."というものがあります。現在福岡の空手道場での基本稽古の中に、お互いが向き合い、一方が素早く踏み込みながらの上段・中段・そして上段〜中段のコンビネーションの突きを相手に放ち、相手はそれを下がりながら受ける、もしくは見切って下がりながらかわすという練習があります。

 このとき相手の突きを「目で捉えよう」と意識すると必ず一瞬動作が遅れてしまいます。
 最初自分もなかなか上手く見切れませんでしたが、上記のブルース・リーのセリフにあるように感覚で捉えるようにした途端、紙一重のいいタイミングで見切れるようになりました。

 感覚で捉えるときの意識とは、ちょうど青空に流れゆく雲をぼ〜っと眺めているような感覚で、体の力は重力に任せるように完全に抜きます。すると相手の動き始め、特に肩の辺りが微妙に動く瞬間を全身で捉え瞬間的に適切な動きが「出る」のです。決して意識して「出す」のではありません。意識というのは視野を狭めてしまうのでしょうか。意識しないことによって、一つのことに心が捕われることなく、広く全体を自分の「鏡」に収めることができるようです。

 この「考えず、感じる」ということは仕事にも通じています。現在高校1学年の担任をしていますが、毎朝のホームルームで生徒に伝える連絡事項やメッセージを予め考えて教室に向かいます。今日はこういうことをこの順番で、こういう風に伝えよう。するとクラスは今日一日、こんな雰囲気でスタートできるといったシナリオを描いています。以前は教室に入るとそのままシナリオ通りにホームルームをやっていました。しかし打率が安定しない、思った流れにならない、そんなことが続きました。

 しかしこの「考えない、感じる」ということの意義に気づいてから、自分の準備してきたものを一旦捨ててしまう勇気が出てきました。結局現実は流動的なのです。人を相手にしている限り「マニュアル」で全て対応できるということはありません。そしてこれ以後はクラス全体の雰囲気を肌で感じるための感覚を鍛え、「あっ、今日はなんか疲れてるな」や「ちょっとぴりぴりしてる感じがあるからこれはこう伝えよう」といった臨機応変の振る舞い・話ができるようになってきました。そしてわずか10分ですが、毎朝のホームルームをいい形で着地させることができるようになり、打率も随分上がったように思います。

 結局、

 「計画は大事。  しかし計画の通りには進まない。  だからいざ現実のステージに入ったら考えない。感じたままに動くこと。」

 これは当たり前のような話に聞こえるかもしれません。しかしこれは空手を通し、頭ではなく体で理解したからこそ、本当に自分のものになったような気がします。

 ちなみに考え込むタイプの人はスポーツに向かない人が多いと思います。私の高校は部活動が盛んですが、全国レベルの選手を見ると普段から大して考えていません。その代わり皮膚感覚を使っての判断力、判断のスピードはものすごいものがあります。

 もちろん考えることと感じることのバランスが取れているのが一番いいわけですが、何をするにしても実際に動くときは感じることを主体にした方が、これまでのやり方に捕らわれずにその場で最も最良の判断が瞬間的にできると思います。ぜひこの点についてご一考を!

(翔の作品)


※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=247

Cosmic Law

JUGEMテーマ:人生論


 人を束縛しようとすれば
 するほど
 人は離れていく

 人を自由にさせれば
 させるほど
 人は近づいて来る

 何かを達成しようと
 力めば力むほど
 目標は遠のいていく
 
 リラックスすれば
 するほど
 目標は近づいて来る



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=239

日和見主義のすすめ

JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学


  その場の状況に合わせて自分の意見をコロコロと換え、強いものに巻かれて生きようとする人物を「日和見主義者」と呼んでいる。大抵の場合が、悪い意味で使われることが多いのだが、私は別に悪いとは思わない。
 
 人生には、どうしても自分の意見を換えなければならない瞬間が少なからずやってくる。もし意見を換えなければ殺されてしまう場合だってあるのだ。そんな場合に自分を曲げずに、図らずも命を落としてしまった人に対し、世間は賞賛の言葉を贈るのが常である。しかし他人事ならいいかもしれないが、もし自分がそれで命を落としてしまったら元も子もない。

 もしある人が不利な立場に立って、日和見主義に走ったとしても、私はその人を蔑んだりはしないだろう。それはその人の「生きる知恵」に他ならないからである。その人は意見を換えることによって、有利な立場に立つことを選んだに過ぎず、私はその人の選択に対して何ら物を申す権利を持っていない。言い方によっては、「その人は柔軟性がある」ということにもなるのだ。

 情報が氾濫し、世の中の価値観が変動しやすい世の中を生きていくとき、ずっと自分の意見を換えずにいるのは、どれだけつらいことだろう。世の中の流れが変わったにも関わらず、自分の意見を死ぬまで換えないのは不可能である。この平成の世に尊王攘夷運動をしているようなものだ。

 世の中は目まぐるしい早さで変わる。状況に応じて素早く自分の意見を変えていけるようにならなくてダメだ。晴れになれば布団を干し、雨が降れば傘をさそう。そして雪の日は外出を控え、地震の時は早く逃げよう。日和見とはそういうことだ。そして日和見主義を非難する諸君、あなた方は自分の命が奪われてようとしている時にも、意見を曲げない覚悟があるか、その自らの胸に問いたまえ。                (仁の作品)



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=233

現場至上主義の行き着く先

JUGEMテーマ:仕事のヒント


  「事件は会議室で起こっているんじゃない!現場で起こっているんだ!」
 このセリフがすっかりお馴染みになった昨今、とかく「現場」というものが優先されるようになった、ような気がする。そして人間の悲しい性なのだが、「現場」を知っている人間が優越感に浸るようになったことも身に染みて実感する。先日は「現場は優先すべきだ。」などと書いたが、敢えてここで言わせてもらう。現場がそんなに偉いのか、と。

 現場は確かに優先すべきだが、かと言って現場の人間の言うことを鵜呑みにして、現場外の人間はそれに対して「はいはい」と言って服従してしまっていていいのか?私はこれを「現場至上主義」と密かに呼んでいる。その弊害として以下のことを挙げることができる。

 仝従譴凌祐屬蓮現場の視点からのみ物事を捉える傾向にある。
 

 現場の人間が常に正しいことを言っているとは限らない。
 

 8従譴凌祐屬、現場外の人間を見下す傾向にある。

 まず,砲弔い董8従譴噺従豎阿領省を経験している人間ならば、ある程度客観的な視点で状況を判断できるが、現場しか知らないとなると、現場の視点からでしか物事を語れなくなる。現場外から見れば大したことがなくても、現場の人間が勝手に大騒ぎして、事が大きくなることもしばしばある。これは現場と現場外のコミュニケーションの不足から生じることが多い。
 

 △砲弔い董,力辰板未犬襪、現場の人間が常に正しいことを言っているとは限らない。人間は誰しも過ちを犯す。この場合、現場の情報を手に入れた現場外の人間が適格なアドバイスをすることが重要である。ただ、現場を全く知らない人間がアドバイスをすると非常に危険ではある。

 について。組織は、現場で働く人間、現場外で働く人間、それぞれが有機的に活動してこそ成果を挙げるものである。現場と現場外が対立し、一番優先すべきである取引先や一般市民に迷惑をかけるなど言語道断である。現場が現場外を見下し、後者が前者にペコペコ頭を下げている組織などは、一日も早く解散したほうが良い。

 現場はいわば前線部隊、現場外はいわば後方支援基地である。今、私はその後方支援基地にいる。前線部隊からは、「前線兵士の苦労も知らないくせに!」と陰口を叩かれていることもあるらしい。確かに私は前線を知らない。しかし後方がなければ前線も成り立たない。逆に、前線がなければ後方は存在意義を失う。どちらかが威張り散らしたり、どちらかが卑屈になって遠慮するのではなく、お互い尊敬し合える関係を築くことが重要だ。(仁の作品)



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=191

違いを理解する

 「自分とは違う考えや異文化を理解することは大切だ。」と私はかつて考えていた。しかし、最近では「そうでもないかな。」と考えるようになった。もちろん理解するよう努力はするが、理解しようとしも理解できないものはある。無理なものは所詮無理なのだ。

 世の中には様々な価値観が溢れている。キリスト教、仏教、イスラム教から無神論や超国家主義、はたまた同性愛やら近親相姦からロリコンやら・・・こんな雑多な価値観をいちいち理解できるのか?できるわけがない。理解できないものを理解しようと努めるあまり、その努力のエネルギーが怒りへと変わり、葛藤へと変貌していく。「理解できないものは消してしまえ!」という安易な排外主義も、おそらくこういう所から生まれるのだろう。
 

 そもそも世の中の価値観を理解するという必要はない。理解していようとしていなかろうと、その価値観は厳然と存在している。理解はできなくてもいい。ただ「粗末にしない」ことが大切だ。これはニュース解説委員・木村太郎氏の言葉である。

 異文化との付き合いばかりでなく、友人関係、職場の同僚、そして自分の身内など、自分とは違う他者と付き合うためには、違うという事実を認めることから始まるものだ。無理をしてまで理解などしなくても良い。                     (仁の作品)



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=190


A curse of perfectionism

JUGEMテーマ:仕事のヒント


 初めから
 完全を求めては
 いけません
 
 あなたが 何かを
 完全に
 やろうと
 力めば 力むほど
 完全は あなたから
 遠のいて
 いくでしょう

 不完全な
 まま
 物事を
 始め
 少しずつ
 完全に
 近づけていく

 これこそが
 完全に
 近づける 
 唯一の
 そして
 最短の
 方法なのです



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=177

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