武道の教え   納得させる教え方

 JUGEMテーマ:教育

 いい教師というのは、生徒に納得させられる教師であると考えています。

 たとえば答えがAのところを生徒がBと答えたとします。このとき答えはAだ、とだけ言われても普通は納得できません。ではBであったらなぜ間違いなのか?その理由を「なるほど!」と生徒に説明できる教師は必ず信頼を得ます。

 
さて、空手の話になりますが...

 空手も集団指導になると、「正しい形」だけに焦点を当ててしまう指導者もいます。生徒が間違った動きをすれば、まるでフィギュアのポーズを修正するかのようにぐっと力を加えて、ときには蹴りを入れて正しい形に直します。

 それはもっともな指導です。立ち方ひとつにしても、この形は「しこ立ち」で、あの形では「ナイハンチ立ち」というように、流派的に、そして伝統的に決まっているからです。

 しかしこの指導は「生徒の視点」からすると果たして適切なのか?これでは正しい答えを教えてもらいながらも、納得いかないモヤモヤ感が心の中でくすぶるはずです。

 答えを示すことに特化したような指導はたとえ効率的には優れていても、「生徒を育てるという視点」が欠如していることから、結局は土台が不安定なまま高層ビルを建てようとしているようなものです。一見正しい答えをたくさん知っているようで、「じゃあなぜ正しいのか」と聞かれると言葉に詰まってしまいます。「正しい答えを知る」だけでは不安定なのです。


 たとえば上段受けは、上斜め45度の方向を拳で突くことによって、受けの形ができます。このときもし生徒が下から上に腕を持ち上げて受けたとき、指導者が「そうじゃない、こうするんだ」と動きを修正しただけでは、かなりの確率でその生徒は同じ間違いを繰り返します。

 生徒の心の中に、「別にどっちでも受けられるじゃん」という気持ちがあれば、潜在意識は修正することに抵抗するのです。傘さし運転は危険だと言われても、「レインコートは面倒くさいじゃん」という思いが危険意識を上回る限り、傘さし運転という行為が繰り返されるのと似ています。

 さて、ここできちんと理解させようとする指導者であれば、「なぜその生徒の受けは適切でないのか」を説明するはずです。たとえば相手の力が強く、腕や剣を上から下に思いっきり振り下ろされたとします。このとき下から上に受けようとすると、列車と正面衝突するようなもので受けを潰されてしまう可能性が非常に高くなるのです。

 それとは対照的に、正しい動作である斜め45度で受けると、相手の攻撃はあたかも雨粒が葉を伝って地面に落ちていくかのように、滑っていくのです。一度このことを生徒に体験させるだけで、学習効果は大きく違ってきます。

 人は心から「なるほど!」と思ったとき、反発心など起こらないものです。そして知的好奇心はこのようなところから育っていくものだとも感じています。

 生徒の間違いを尊重し、うまく「なるほど!」と感じさせるように持っていく。簡単にいかない場合もあるでしょうが、指導者の働きとしては大変意義のあるものだと思います。

                                      (翔の作品)
  


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武道の教え  生徒に軽く扱われない方法

 JUGEMテーマ:教育

 人と人が対峙し、これから戦いが始まるという状況ではすでに「事の成行き」が読める場合が少なくありません。これまでも述べてきたことではありますが、恐怖心をより強く感じた方がほとんどの場合劣勢になります。

 恐怖心というものは必ず表に出ます。それは顔の表情に現れたり、体の硬さや腰が引けるといった動作、さらには声が十分に出ないことなどによって、相手に心の緊張が伝わってしまうのです。そしてこれを知った相手は勢いづくことになります。自分に恐怖心を抱いている相手に対しては、強い態度で臨む余裕が生まれるからです。

 要するに、恐怖心を感じることで相手に力を与えてしまう結果になってしまうのです。そのためたとえ技術面では互角であったとしても、戦いでは確実に不利になってしまうのです。

 これは私が教員をしていたときに役に立った知識です。新人のときは普通自信を持てません。その自信のなさは生徒に必ず伝わります。特に一筋縄ではいかないやんちゃな男子校に勤務していましたので、少しでも自信のない態度を取っていると、生徒を引き付けるだけの強い求心力など持てるはずもなく、クラスという集団をコントロールすることなど絶対にできません。

 そこで大事なことは、まず堂々としていることです。姿勢を真っ直ぐに、目線はゆっくりと動かすこと。さらに発声の仕方も重要です。声はエネルギーを飛ばします。しゃべる内容はたとえ事務的なことであっても、なるべく低い声で集団を包み込むように、そして声の圧力で相手を押せるくらいの発声を心掛けることです。これだけで、生徒はこちらの話を随分と聞くようになります。

 以前テレビで放送されていた番組で興味深い実験がありました。猿の集団の中に、二人の男性が入ります。そしてそれぞれの男性が手に猿の好物のエサが入った箱を抱え、椅子に腰かけそのままじっとしてします。すると猿たちはエサをもらいに近寄ってきますが、どの猿もなぜか一方の男性が抱えるエサ箱にしか手を出しません。これはなぜなのでしょうか?

 実験結果の説明によりますと、猿はその二人の男性を見比べて、自分よりも格下だと思った方の男性からエサを取っていたということでした。人間は社会的な動物であると言われますが、実際は人間も猿同様に、このような格の測り合いを無意識のうちにやっていると私は感じています。

 私の勤務した高校でも、当然ながら生徒は異なる教員ごとに態度を変えていました。言葉でいくら「人によって態度を変えてはいけない」と訴えたとしても、結局は理性に働きかけている限り生徒の行動は変わりません。そうではなく、こちらの振る舞いから格の違いを感じさせ、生徒の本能に働きかけるべきなのです。これがなかなか難しいと言う人は、まずは声だけでも鍛えてください。発声に圧力を込めるようにするだけでも、相手の無意識には「ナメてはいけない相手だ」という情報が入ります。

 現在お世話になっている空手の先生が仰っていましたが、第二次世界大戦中、アメリカ軍がもっとも恐れたものは日本の兵隊の掛け声だそうです。「おりゃ〜とつげき〜!」「ワ〜!」という声にアメリカ軍兵士は圧倒されたため、戦後しばらくの間は駐留軍の命令により武道の稽古では「気合」が禁止になったという話を伺いました。

 どんなに優秀な教師であっても、集団のリーダーである以上は知識や教え方というソフトウェアもさることながら、まずは自信とパワーを感じさせるハードウェアをつくることを意識するのが肝心でしょう。
                                                                                                  (翔の作品)



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学校を否定する人々

JUGEMテーマ:新社会人

 世の中、「学校での勉強は社会では役に立たない」とよく言われる。昨今こういう根拠なき定説が何の議論もないまま独り歩きしている。役に立たないと思うならば、なぜ彼らは学校に行ったのだろうか?しかも大学を出ている人間が堂々とこういうことを言うのは不可解である。それならば義務教育を終えたら、さっさと働けばいいわけで、高い金を払ってまで高校大学で「役に立たない」授業など受ける必要はない。

 ところで学校で勉強したことは本当に社会では役に立たないのだろうか?漢字が読めなくてもいいのか?計算ができなくてもいいのか?地図や天気図が理解できなくてもいいのか?余計なことかもしれないが、学校での勉強を否定する人々は、学生時代に本当に勉強したのだろうか?

 学校の勉強が社会では役に立たないと断定してしまうのは、あまりに勿体ない話である。第一、勉強したことを今後の人生において活かすか殺すかは自分次第ではないのか?学んだことがすぐに直接に役に立つことは少ないかもしれないが、せめて学んだ方法を仕事に応用することは可能であるはずである。

 むしろ、学校の勉強を否定する人々は、学校に過剰な期待を寄せているとも言える。もっと社会で役に立つことを教えてほしかった、というのが彼らの本音なのかもしれない。しかし学校もそこまでお人よしではない。「はい、社会に出たらこういうふうにやるんですよー」と手取り足とり教えても、単なるイエスマンばかりが増殖し、考えることを放棄する人間しか育たなくなる。

 役に立たない勉強の代表格として槍玉に挙げられる科目に古典がある。古典文法など何の役にも立たないし、社会に出ても「いとをかし」なんて言わない。そんな声は頻繁に耳にする。私も高校のときはそれに賛同していたし、古典担当の教諭を心から嫌悪していた。ではなぜ我々は古典を学ぶのか?

 受験に出るから。ではなぜ受験に出るのか?その意味を考えたことがあるだろうか?古典で重要なものは中身であって、文法はそれを読むための手段に過ぎない。1000年も前に書かれた書物がなぜ今もなお残っているのか?そこには我々に生きるヒントや、人間の本質を鋭く突いた内容が盛り込まれているからだ。先日、たまたま高校時代の古典の教科書を開いた。吉田兼好の「徒然草」には、当時の権力者に対する痛烈な批判が展開されており、現代に生きる我々にも頷けるものだった。

 結論として、学校教育の否定は、学問の否定とともに人間性の否定であり、人類の歴史を否定することにも相当する犯罪行為といって良い。そして「学校での勉強が社会では役に立たない。」という根拠不明の仮説は、無意味な暴論であると改めて主張したい。
                                  (仁の作品)



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=129

生きる

JUGEMテーマ:教育 

 いわゆる「いじめ問題」が社会を騒がせ始めてから長い時間が経った。いじめによる自殺は後を絶たず、巷に溢れかえる「いじめをなくそう」とか「命の大切さを」などという文句は一向に効果を発揮していないように見える。むしろ「いじめはいけないことだ」とか「命は大切だ」とかいうことは、別に人から言われなくてもみんな分かっているのだ。なのに何故いじめはなくならないのか?
 

 人は、困っている人を助けてあげたいという心を持っている一方で、自分より弱い者をいじめたり、自分の嗜好に合わない者は排除し、それによって快感を得るというサディスティックな一面を持っている。落合信彦の本によれば、子供はまず自分と相手の異なる点を見つけては、それを誹謗中傷するという。白人の子供は黒人の子供に対して「くろんぼ」と罵ったり、背が高い子供は背の低い子供に向かって「チビ」と罵ったりする。これは一対一の場合だからまだいい。
 問題は複数の人間が一人の人間を苛める場合である。集団暴行をはじめ、その子供の身体的特徴や能力を中傷したり、無視したり、その子供のモノを隠したり、といったものが一般的なケースである。しかし、いじめる側もある種の恐怖感を抱いているのも事実である。いじめのターゲットがいつ自分になるか分からないからだ。いじめを続けて、いじめの標的を固定化させなければ、標的が自分になってしまう。こうしていじめは続き、いじめられた子供は自信と希望を無くし、最悪の場合は自殺へと到る。
 
 ではどうすればいいのか?人間の本性から言って、いじめは無くならない。それならば、いじめに耐えられる強い人間を作ることだ。体力的な強さ、精神的な強さ、それに加えて自分を大切にすることを育むべきである。
 この社会は、個人が画一的に生産され、はみ出した者は排除される仕組みになっている。このような社会の仕組みを是正し、個性を尊重して、自分を愛することを教える教育を施すことが重要であると思う。他人への思いやりも大事だが、それにも増して大事なのは自分への思いやりである。
 オレはいじめなんかには負けねえ、オレには夢がある、オレには素晴らしい個性がある、いじめられたくらいで死ぬなんてもったいない、こんなに素晴らしいオレは生きる価値があるのだ!!と子供に思わせるように育てていくのはどうだろう?
 昨今の教育は、他人を思いやる心は教えるが、自分を愛する心を教えていないような気がする。それどころか宮沢賢治に代表される自己犠牲の精神を教えているのだから、これは危ない。確かに彼の思想も注目に値するが、それだけが突っ走っていっては危ないのだ。また、「みんなからデクノボーと呼ばれ、褒められもせず、そういう人に私はなりたい」的な謙虚さも結構だが、それは卑屈と紙一重であり、厄介な代物でもある。それよりも「みんなから尊敬され、褒められる人になりたい。」という自信が大切だ。
 
 昨日、あまり好きではない某ニュース番組を見たが、鳥越俊太郎がこんなことを言っていた。(2008年2月現在)
 
 「死のうとしている人たちに言いたい。明けない夜はないんだから、頑張って生きていって欲しい!」
 
 その通り。メディアなども、そういった励ましの言葉をもっと国民に投げかけてほしいものである。(しかし、その直後に「いやー、社会がよどんでますよねー」という余計なコメントが横から入ってきたのには辟易したが・・・)
 
 かく言う私も、いじめにイジメ抜かれて、ここまで生きてきた。生きていりゃ何とかなるものである。そして人間には暖かい一面と冷酷で残酷な一面があるということも何となく分かってきた。そしていじめは永久に無くならないことも確信した。いじめられている人は、子供の中だけではなく、大人の中にもいる。その人たちに言いたことは、「まず自分を思いやって、自分を愛することから始めてみよう!」ということである。
                                   (仁の作品)
※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=95

おもいでのせんせい

JUGEMテーマ:エッセー・紀行文


 俗に言う「名物先生」という人は、たいていどこの学校にもいる。
 私が大学で出会った先生もある意味で名物だった。
 その先生に出会ったのは、ある少人数の講義においてであった。
 その講義は必修で、しかも学生の意思に関係なく学籍番号順に割り当てられる。
 我々が強制的に割り当てられたのは、まさにその先生の講義だった。

 先生は、上級生たちから「死人」と噂されていた。
 そしてその名を聞くと、一斉に顔をしかめる。
 そして我々に同情したように、「かわいそうに」と言葉をくれた。
 その意味を、我々下級生は知る由もなかった。
 毎週水曜日の午後一時からの一時間半、我々は「地獄」を見ることになるのである。 

 講義が始まった。
 雰囲気は「ご臨終」であった。
 先生は「死人」だった。
 「葬式」そのものだった。
 教室は「火葬場」だった。
 テーブルは「霊柩車」だった。
 
 シーンと静まりかえった中で先生が一人、
 教科書という名の木魚を手にして経を唱えるかのごとく、
 そこは悲しみと絶望のどん底だった。
 
 静かだった。
 先生が一人で何かを呟いていることを除けば、そこには静寂の世界があった。
 まるで葬式の参列者が誰一人としていないのと同じくらい虚しい。
 そして儚い。
 「オレの人生は一体何だったの?」
 と誰もが口にしたくなるような。
 
 一時間で「葬式」は終わった。
 誰にも見取られることなく、先生は「あの世」へと旅立っていった。
 しかし、本当の「葬式」はこれから始まるのだった・・・

 ある日、先生は学生Aに質問した。
 学生は、「質問がよく聞こえなかったので、もう一度お願いします。」と返した。
 先生は言った。「オレに聞くな!考えろ!この講義はお前らだけでやるんだ!」
 え?なに?
 じゃあ先生、なぜあなたはそこにいるの?
 何のために存在しているの?
 別にいなくてもいいじゃない!!??

 ある日、先生は一人でつぶやきながら笑っていた。
 「死人」の笑い。さすがに不気味だった。
 最後の20分、彼は一つの問題を出してこう言った。
 「この問題はみんなで考えなさい。時間が来るまで。
 ボクがいないほうがいいでしょうから。
 ボクがいたって無駄だから。」
 先生!それなら最初からいないほうがいいじゃん!
 先生が出て行ったあと、学生たちは唖然としながら、一人また一人と教室を出た。

 先生と学生との間の溝は深まるばかりだった。
 溝はやがて谷へと姿と変えて行った。
 架け橋ができるまでかなりの時間を要するだろう。
 しかしそんなことをしたって何の意味もないことは皆わかっていた。
 そう、だからみんな溝が谷に変わるのを黙視しているのだ。
 棺桶、線香、焼香、いくつ用意しても成仏できない哀れな迷える魂。
 十万億土からお迎えが手招きしても応じようともしない。
 地獄の閻魔大王の手にも負えない男・・・

 ある日、天気はどんよりしていた。
 「葬式」の雰囲気とよく調和していた。
 先生は学生Bに質問し、しばらく考えるように言った。
 その沈黙の間、先生は空きの椅子を前後左右に動かしながらこう言った。
 「ふっふっふ、何をしてるかって?ただ椅子を動かして遊んでるだけー。」
 みんなドン引きだった。
 先生、一体あなたは何がしたい!?
 椅子取りゲームよりもレベルの低い遊びじゃないか!
 もうやめようよ、こんなこと・・・

 最悪だ。
 最悪という字が腐敗して異臭を放っていた。
 肥料にするにはあまりに強力で、かえって植物は枯れ果てる。
 「死人」は動物はおろか、植物にまで影響力を及ぼそうとしている。
 そのエネルギーは富士山の噴火をもたらすであろう。
 望月峯太郎の「ドラゴンヘッド」のように。
 
 ある日、先生はあずき色のシャツを着てきた。
 血に泥が混じったように見えて、妙に似合っているのが怖かった。
 梅雨だった。蒸し暑かった。
 夏の暑さは死体をすぐに腐らせる。
 ドラキュラは心臓に杭を打てば死ぬが、あの男には効きそうもない。
 首から上を爆破させても効き目がありそうにない。
 火炎噴射機も無用であろう。

 この講義がすべて終わった日、我々は解放された。
 この日は1863年の奴隷解放宣言に次ぐ偉大な日であった。
 みなの表情はにこやかであった。
 
 先生は我々に忌わしい記憶を残した。
 言い忘れたが、先生の専門は「社会福祉学」である。
 他人を不幸に陥れる人間が、人間を幸せにする学問を研究する。
 これほどまでに、笑うに笑えない悪趣味なブラックジョークがあるだろうか?

 六年が経とうとする今でも、私はあの頃をふと思い出す。
 惨めで重苦しい空気。
 先生の不気味な笑い。
 みんなの悲しみと絶望に満ち溢れた表情。
 あの悲惨な日々を歴史に残そうと、私はようやく重い筆を持つことができたのである。
   (仁の作品)





獣のように

JUGEMテーマ:教育


 日本社会がまた変な造語を作り出そうとし、教育現場を惑わそうとしている。
 日本語で表現が可能にも関わらず、横文字を使って意味をぼかし、実態をあやふやにしている罪は重い。
 

 「モンスターペアレンツ」という言葉をよく耳にするが、その正体は一体何だ?
 日本語に訳せば「野獣のような親たち」。

 それはどのような親なのだろうか?
 
 「何でウチの子ばっかり叱るんですか?」と、教師に詰め寄る親たち。
 「あなたが担任になったせいで、ウチの子の成績が悪くなった」と喚く親たち。
 「先生の躾が悪い」と教師に責任転嫁する親たち。
 

 遠慮なく言わせてもらおう。
 正しい日本語で表現すれば、彼らは「モンスター」といった類のものではなく、ただの「バカ親」である。

 「モンスター」ならば、機動隊を出動させて始末すれば簡単に解決するが、彼らは「人権」という武器を持っているため、容易に始末はできないので余計にタチが悪い。

 そもそもなぜ「モンスターペアレンツ」などと外来語で言う必要があるのか?
 「バカ親」と言ったほうが、意味も通るし、本人たちに自覚を促すには充分な表現方法であると私は思う。

 私の両親も中学校の教員だが、上記のような親たちが最近特に増えているそうだ。
 母親はいつもため息をついている。

 昔の話をするのは若干憚られるが、私が子供の頃(10年ちょっと前)は、学校で先生に叱られれば、家に帰ってからも「アンタが悪い」とまた怒られたりしたものだ。

 こんな「バカ親」に育てられた子供の将来、そして彼らが担う日本の姿はどうなるのだろうか?

 嗚呼、美しい国、日本。   (仁の作品



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