Misunderstanding

JUGEMテーマ:エッセー・紀行文

 日常生活でも言葉の行き違いや誤解はよくある。昔、ある本でこんな話を読んだことがある。ある工事現場での話である。その現場では、発破のためにダイナマイトを使用していた。ある時、雨が降って現場に置きっ放しにしてあったダイナマイトが、湿気てしまった。現場監督は、側にいた作業員に「そのマイト、『日』に当てといてくれ。』と指示をする。その作業員は、現場監督から言われた通りに、そのダイナマイトを「火」に当てた。そのため彼は爆死してしまう。
 
 この事件は、裁判になったが、結局方言の取り違えと言う結論になり、この現場監督は無罪になったとのことである。
 
 こういう、言葉の行き違いは、上記のように悲劇でもあり、時には喜劇でもある。
 
 私も、大学の事務室で同僚の女性に「ご飯を食べに行こう」と言われて、英語で"Where to?"(「どこへ?」)とふざけてと言うと、一人の中国語の達者な先生が「どうぞ、早く吐きに行って下さい。」と言います。

 私は、「エッ、どういう意味ですか?」と聞くと、その先生は「吐きたいんでしょう?早くトイレに行って下さい。」と変なことを言い出す。「はあ?何のことですか?」と私が言うと、彼女は「だって先生、今中国語で『我要吐』って言ったじゃないですか」と言うのである。

 『我要吐』はローマ字表記をすると"Wo yao tu."である。私の"Where to?"が彼女の耳には "Wo yao tu."に聞こえたのだ。確かに、早口で言うと、両方とも「ウォーャトゥー」となりよく似ている。この誤解は、私の英語の発音と彼女の中国語のリスニング力の相乗効果で生まれたものである。
 
 この同僚は、日中のハーフである。彼女は、日本語も中国語も殆どネイティヴ並に流暢に話す。実に羨ましい限りだが、彼女にも日中のハーフであるがゆえの誤解もあるようだ。
 
 彼女がまだ、日本に住んでいた頃、友達が彼女にこう言ったそうだ。「最近、江沢民(こうたくみん)の歌をよく聞いてる。」それを聞いた彼女の反応は、「江沢民の歌?江沢民の歌ってどんな歌だろう?」その友達は、彼女に何度も「江沢民」と言う言葉を連発する。
 
 彼女が知る限り、その友達は中国共産党にはおよそ縁の無い人だったので、何故この友人が急に「江沢民」の事を言い出したのか理解しかねたそうだ。暫く、噛み合わない会話をその友人と続けているうちに、彼女はある事に気付き大笑いし始める。この友達が言っていたのは、「江沢民(こうたくみん)」ではなく、「幸田來未(こうだくみ)」だったのだ。全く、江沢民もビックリの大誤解である。
 
 もっとも、私も彼女のことを笑えない。中国に行ったばかりの頃は、中国語の単語を殆ど忘れており、かなり苦労した。漢字が読めるので、表記の中国語は大丈夫だろうと高をくくっていたのが大間違いだった。同じ単語でも、日本語と中国語とでは全然違う違う意味になる場合が多々あり、どんなに頑張っても、誤解するどころか文全体の意味すら把握できないことが少なからずあった。
 
 最初に勤めた大学の前に、薬局があった。よくお店の前を白衣を来た女の人が、掃除をしていたので、薬局だとすぐ分かった。当時、私が住んでいた教師用の部屋は、隙間風が多く、冬はマイナス15度くらいだった。
 
 あまりに寒かったので、前期の試験が終わった直後に、ひどい風邪を引いてしまった。私は、学生に勧められた風邪薬を買うために例の薬局に行った。お店のある場所まで来ると、お店の前に「保健品」と書いた看板が立っている。その漢字を見て、「ああ、ここだな。」と思い、そのまま店に入った。だが、店内の様子がどうもおかしい。
 
 よく見ると、エッチな写真つきの妙な品ばかりである。店員に、「何が欲しいの?」と聞かれて、「風邪薬をくれ。」と言うと、店員は妙な顔をして「ここにそんなもんはないわよ。」という。私は、「え?だって、表に保健品って書いてあるじゃん。」と言いたかったが、当時の私は、それを言える中国語力を持ち合わせていなかった。仕方がないので、表に出てもう一度よく見ると、薬局は、その店の隣だった。
 
 後で、知り合いから「保健品」の意味を教えてもらった。「保健品」とは、「性保健品」の意味で、避妊具や大人の玩具、媚薬などの事だそうである。知らないという事は、ホントに恐ろしい。と言うか、恥ずかしい。
 
 
 ある時、学校のスーパーでウェットティッシュを購入した。授業中はチョークの粉で手や服がかなり汚れるので、様々なウェットティッシュの中から、オレンジ色のものを8個ほど購入して、一ヶ月ほどそれを使った。初めて、授業中それを使っていた時、前の席に座っていた女子学生たちが、私を見て妙な表情で笑っている。私は、なんで変な顔をしてるんだろうくらいにしか思わず、そのことは別段気にも留めなかった。
 
 一ヶ月ほどして、手持ちのウェットティッシュが切れたので、大学のスーパーに男子学生と一緒に買いに行った。棚から、五個ほど「ブツ」を持ってきて、レジに置くと、店員の若い女の子が中国語でこう言った。「換=huan!」。「換」とは交換の換である。つまり、「これは換えろ」と言ったのである。一緒にいた男子学生がそのウェットティッシュのパッケージをジッと見つめて、

 学生: いえいえ、先生。これは、女の人の・・・

 私 : エッ(^_-)

 単語が分からないからと言って、読み取る努力を怠ってはいけないといういい事例である。紛らわしいから、同じところに置くなよ(ーー;)


※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1619

以心伝心

  JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学


 和道流空手を修行していた時のことです。平安の四段(空手の演武型)を先生にご指導頂き、命じられて先生の前で型を演じておりました。すると私の演じた型のどこかが変だったのでしょう。先生が、「それはちょっと違うな」という表情でこちらに近づいて来られました。今考えても不思議なんですが、その時先生が何をおっしゃりたいのかが本能的に理解でき、先生がこちらの動きを矯正される前に自分で矯正できたのです。先生は「それでよし」と言った感じで頷かれ他のお弟子さんの方へ歩いていかれました。それから度々同じ事が起りました。所謂「以心伝心」と言うんでしょうか。
 

 この時、武道の指導には必ずしも言葉は必要ではないな、と思ったことを憶えています。
 

 これは、武道の師弟間におけるノンヴァ−ヴァル・コミュニケーションと言えるでしょう。同じような話を、以前剣の指導をしたことのあるアメリカ人の弟子が教えてくれました。
 

 あるアメリカ人が中国拳法の修行のため中国にいた時の話です。彼は師に命じられて套路(空手で言うところの演武型)を練習していました。師は隣の部屋で静かに書道に勤しんでおられたそうです。初めは、「俺は好きな書道をやるから、お前はお前で勝手に練習してろ」と言わんばかりの印象を受けたそうです。

 ところが、いざ彼が順番を間違えたり、正しくない動きをしたりすると隣の部屋にいる師の呼吸と言うか、雰囲気のようなものが変わるのが、彼にはハッキリ感じ取ることができたそうです。その度に、彼が自分の動きを是正すると師の雰囲気は、また元に戻ったそうです。
 

 これは、ノンヴァ−ヴァル・コミュニケーションを超えて、もはやテレパシック・コミュニケーションとでも呼べるものかも知れません。テレパシー=精神感応と言うと、大仰に聞こえますが、本当はこの話の中に見られるようにもっと自然なものなのかも知れません。
 

 また。お会いしましょう。 

 
 "Could you understand what I said?  You couldn’t?  How is it that you could not,Grasshopper?"  ― Master Long




Don’t look at my finger pointing away to the moon.

 JUGEMテーマ:思想・啓発・哲学


 翔君の一番最近のブログを読み、その洞察の深さに感心するとともに、ちょっと首を捻りました。別段彼が、変なことを書いていたわけではありません。ブログの中の

 ー太錣任浪韻┐慎擦倭瓦橡困譴襪海函

 ⊆太錣任麓分が動きたいように動くこと。

 という部分を読んだ時に、違和感を覚えたのです。「あれ、俺そんな事言ったかな?」というのが正直な感想でした。しかも、彼のブログによると何度も繰り返したとのこと。なんかウッスラとそんな事を言っていたような気がしないでもありません。

 実は、私、普段独りでいる時は武道の技術論なんか全く考えません。そんな七面倒臭い考えなくても、体が自然に動くからです。それどころか、自分は武道に関して殆ど何も知らないと本気で思っています。(まあ、これは半分本音です。大したレベルの空手使いではありませんから。もっと凄い先生は沢山いらっしゃいます。) 

 しかし、人に教える時は全く違います。一旦本気で教え始めると自分でもビックリするくらい次から次へと情報が口を衝いて出てきます。それも、意識して話しているわけではなく、口が勝手に動いて話をしています。無意識に口を衝いて出て来る言葉だからこそ弟子たちから「あの時先生は、こうおっしゃいました」と言われても、上記のように全然ピンと来ないことが多いのです。

 自分は考えずにできる事でも、弟子に教えるためには言葉を使って弟子に様々な武道の法則性を認識させなければなりません。教えるために仕方なく言葉を使っていますが、言葉そのものは真理ではありません。弟子は師の言葉とノンヴァ−ヴァル・メッセージ、さらに師が自ら動いて見せてくれる手本を導きの糸として、自分で武の真髄を掴まなければなりません。そして弟子が一旦真髄を把握すれば、彼はもう意識しなくても自然に理に適った動きができるのです。彼にはもう言葉は必要ありません。もし必要になるとすれば、それは彼が誰かの師になった時のみです。

 誰かに月を見て欲しければ、指差して「ほら月が出てるよ。綺麗だね」と言います。月を差している指は決して月そのものではありません。言葉というのは月を差す指のようなものです。大事なことは月を見る事です。月が見えれば、指のことは忘れていいのです。
 


 "Could you understand what I said? You couldn’t? How is it that you could not, grasshopper?"   ― Master Long
 


※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=90

 

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