続・稽古ノート 12  ― 剣・杖

JUGEMテーマ:合気道

 

 最近、主に稽古しているのは、神道流剣術と神道夢想流杖術、及び、扇舞である。最後の扇舞は、中国人の老師のもとで拳法を学んでいた時に、先輩から学んだものである。私は、これに、筑紫舞の扇の動きと地元に残っている鉄扇術の動きを加味して、新しい武の舞を創造するつもりである。

 

 神道流剣術の方は、大太刀が8本、小太刀が4本である。神道夢想流杖術は、基本十二本の単独動作と相対動作、及び全日本剣道連盟制定の組形の二本目までである。せっかちに修練を進めて、技が雑になってしまうのは、何としても避けたいので、全剣連の杖術組形は、一月に一つずつ増やしていくことにした。

 

 昔やっていたとはいえ、大分忘れているし、自分(たち)を指導してくれる人がいないので、組形は、仕の動きも、打の動きも、同時に一人稽古しないといけない。

 

 私が持っている神道夢想流杖術のDVDの中では、松井健二先生が、懇切丁寧に解説してくれているので、かなり助かる。

 

 自分自身が人に武道を指導する立場にいるので、他の先生の御指導を拝見・拝聴すると、その先生が、弟子に「どうして欲しいのか?」或いは、逆に「どうして欲しくないのか?」が、よく理解できる。

 

 

 大分、体が神道夢想流の動きに慣れてきた。剣や杖を持って稽古しながら、空手や拳法を稽古するときとは、また趣の違う丹田の充実感がある。

 

 神道夢想流の先生方は、一見して丹田が出来てらっしゃる方ばかりだが、以前は、「よくあんな稽古で丹田が出来るなあ?」と不思議に思っていた。その当時は、気功の鍛錬が最高だと思っていたので、理解ができなかったのである。日本人の生活様式や遺伝的形質を考えれば、日本的な動きで練丹する方が、本来は、日本人によりマッチしているのかもしれない。


続・稽古ノート 11  ― 合気技の難しさ

JUGEMテーマ:合気道

 

 武器術の鍛錬が終わったので、次は、舞の稽古を行った。今日は、舞を使った練丹術を指導した。Y君は、太極拳の開合をほぼマスターしているので、それに舞を乗せるだけでよかった。舞自体は、彼が入門した頃から教えていたので、かなり高度な練丹術ではあったが、すぐに動けるようになった。

 

 かなり奇妙な動きなので、道行く人たちが、我々の稽古を食い入るように見つめ始める。今日、我々が稽古したモノは、八の字に歩く動きと、後ろに蛇行する動きの練丹術である。ある程度中国拳法の知識がある人が見たら、八卦掌を稽古しているように見えたかもしれない。

 

 

 それから、残りの舞の復習をして、合気技の稽古に移行した。

 

 前回、合気技のネタバラシをしたので、今日のY君は、ドンドン合気技を使えるはずだった。筈だったが、実際にやらせてみたら、全く出来ない状態に後戻りしていた。

 

 ここら辺が、合気技の難しいところだ。私は、彼に何も秘密にしていない。多くの人たちが知りたがっている合気の核に当たる部分を全て説明した。だが、それでも、出来ない。

 

 微妙な腰遣いやイメージの使い方が合気技の極意なので、その理屈を習ったとしても、一時的に出来るようにはなるが、それが永続しないのだ。こういう経験をする度に、言葉と言うモノの限界を痛感する。言語表出の後には、その言語を表出する人の認識が存在しているし、その認識を形成するのは、その人の経験(体験)だからだ。

 

 

 天文学者は、自分が空間というものをどう理解しているかをあなたに語りもしましょう。しかし、その理解を与えることは出来ないのです。

 音楽家は、宇宙にみなぎるリズムをあなたに歌って聞かせもしましょう。しかし、リズムをとらえる自分の耳と、リズムをこだまさせる自分の声をあなたには与えられません。

 また、数の学に通じている者は、度量衡の世界について語れはしても、あなたをそこへ導けはしません。

 ひとりのひとの透察(ヴィジョン)というものは、その翼をほかのひとに貸せはしないのです。

                               (カリール・ジブラン著「預言者」より)

 

 

 後は、Y君が、自分で合気の理合いと感覚を体得するしかないようだ。今日は、その事をお互いに確認して、稽古を終えた。

 

 

オマケ:全く合気技が出来ないのも可哀想なので、Y君に杖を使って行う合気技の一部を伝授した。すると、素手でも同じことができようになった。「だから、武器術をやらないとダメだって言ってるんだよ。」と言うと、彼は、少し納得したような顔をした。


続・稽古ノート 10  ― 剣・杖

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 二週間ぶりに、いつもの公園でY君と稽古した。

 

 今日から、本格的に、神道夢想流杖術と神道流剣術の稽古を始めた。ついに一歩を踏み出し始めたという感じだ。Y君は、武器術には、興味がなく、あまり気が進まないようだったが、

 

 「体術を極めたかったら、武器術も、やらないと絶対ダメだ。」

 

と説得した。それに、体術だけしか習得してないと、刃物で襲われた時に素手で対応しようとするので、危険でもある。

 

 

 まずは、杖の基本の構え、立杖・提杖・常の構えを教え、次に、杖術の基本12本の最初の三本、「本手打」「逆手打」「引落打」を教えた。

 

 自分は、自然に動けるようになってるので、すぐに覚えてもらえると高を括っていたが、Y君は、初めてやる動きに戸惑っているようで、中々思うように動いてくれなかった。それでも、長年武道をやっている人だけあって、(何より、腰と握りができているので)、暫く指導すると、80点程度の動きは出来るようになった。全くの素人だったら、こうはいかなかっただろう。

 

 ただ、まだ腕で打っているようなところがあったので、そこは、杖を「放り投げる」ように打つようアドバイスした。実際に彼の持っている木刀を腕だけで打ち、次に脱力して杖を体全体で放り投げるように打った。彼は、その衝撃力の違いに、驚いているようだった。(棒術や薙刀術には、戦闘の最中に、棒や薙刀を相手に向かって投げつけて、敵がそれを避けたり、受けたりしている隙に、仕留める技もある。)

 

 三本目の引落打は、打(うち)の持つ太刀を叩き落とす技であるが、私には、一刀流の「切り落とし」のような防御と攻撃を一拍子で行う技術を習得するための基本のように思える。いきなり、そういう高度な事は出来ないので、まずは、太刀を叩き落とすことから、学ぶのだろう。

 

 

 さきほど、Youtubeで、引落打の面白い動画を見つけた。上の動画で指導している先生は、(5:21)辺りで、私の考えが間違っていなかったことを証明してくれている。まさに、「極意は、基本の中にあり」だ。

 

 

 次に、剣の基本の姿勢、提刀(さげとう)・携刀(けいとう)・帯刀の三つの姿勢を教えた。神道夢想流では、真剣を使用することはないが、いずれ、真剣で稽古するつもりなので、真剣を使う時の注意点なども教えた。

 

 ここまでで、結構時間を食ってしまった。今日は、神道流剣術12本のうち、三本目の「鷲(じゅ)」まで教えるつもりだったが、一本目の「合寸(右)」と二本目の「合寸(左)」までしか指導できなかった。この「合寸」を見ると、神道夢想流の「無理せず、切れるところから、切っていく」という戦闘哲学がよく分かる。

 

 

 

 神道夢想流には、杖対杖の技術は無いので、琉球古武道の棒術の応用としての杖による関節技を教えた。運足を使わずに、主に腰の回りのみを使って関節技を掛ける大筑登(うふちくどぅん)のような高級な技術は、教えずに、まずは、運足とともに体を転換させながら行うオーソドックスな関節技を教えた。

 

 

 Y君に剣・杖の本格的な指導を始めたことで、ついに新たな武道への創生の第一歩を踏み出した。

 

 

 


続・稽古ノート 9  ― 剣・杖

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 今日は、夕方仕事から帰って来て、アパートの向かいの駐車場で剣と杖の稽古に励んだ。

 

 肉体労働をしているので、あまり長時間稽古できない。その代わり、仕事場でなるべく武道の動きで動くように努めている。これだけでも、結構いい稽古になる。

 

 20代後半頃、行きつけの喫茶店で、ママから、

 

 「鷹野さん、何かなさってたでしょう?」

 

と言われたことがある。

 

 「どうして、そう思われるんですか?」

 

と逆に聞き返すと、ママは、

 

 「私、実は若い頃、バレエをやってたの。鷹野さんの動き見てると流れるように無駄のない動きだから、何かやってたのかなって。」

 

と答えた。どうも、武道の稽古が、日常の動きにも影響を及ぼしていたようだ。バレエをやってた人だから、それが分かったのかもしれないが。

 

 

 それは、それとして、これまた、昔の話であるが、神道夢想流の道場に通っていた頃、教えてくれた先生が、杖の使い方を教えるために、素手で動きを説明してくれたことがあった。腰の動きをハッキリと認識して欲しかったのだと思う。それは、まるで合気道か柔術の動きのようだったので、先生に、

 

 「これ、なんか体術みたいですね。神道夢想流に、体術は伝わってないんですか?」

 

と尋ねてみた。先生は、

 

 「体術は伝わってたけど、失伝してしまったよ。」

 

と教えてれた。神道夢想流杖術は、元々福岡藩の下級武士が学ぶ捕手術(素手で人を捉える技術)である「男業(だんぎょう)」の一つとして伝えられて来たので、体術が併伝されていたのは、当然と言えば、当然である。

 

 それが失伝してしまったのは、誠に残念であるが、剣や杖の稽古を通じて、体捌きさえマスターしてしまえば、神道夢想流体術を再生するのも、充分可能である。

 

 

 とここまで書いてきて、ある事を思い出した。和道流空手を修行していた時、Aさんと言う初老の先輩がいた。この人は、和道流の五段で、尚且つ、神道夢想流杖術の免許皆伝者でもあった。

 

 ある時、この人と松涛館空手出身のS五段が組手をした。S五段は、攻撃的な組手をする人で、Aさんは、どちらかと言うと守りに徹する静かな組手をする人だった。

 

 徹底的に、嵩にかかってAさんを攻め続けていたS五段だったが、最後は、Aさんに突きを捕まえられて、見事な腰投げで道場の床板に叩きつけられた。その直後、Aさんに、寸止めで踏み蹴りを喉に決められたS五段は、立ち上がると血相が変わっていた。慌てて、先生が止めに入って、二人の組手は、それで終わりになった。

 

 意外な組手の結果に、その場にいた誰もが驚いた。私も、そのうちの一人だったが、Aさんの投げを見た時、「あれ?今のは、和道流の投げでも、柔道の投げでもないな。あれは、なんなんだろう?」と言う疑問を持った。明らかに、そのどちらとも違う動きだったからだ。

 

 もしかしたら、あれは、神道夢想流の腰遣いの応用だったのかもしれない。もう30年以上も前の話で、道場も無くなってしまったので、今となっては、確かめる術もないが・・・・・・


続・稽古ノート 8  ― 武道と舞踏

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 昔、中国人の老師から武術を学んでいた時に、老師が面白い話をして下さった。

 

 大昔は、中国拳法も、実にシンプルな型しかなかった。名前も、「旋風脚」「白鶴亮翅」「金鶏独立」などと言う洒落た名前はなく、単に「受けて突く」とか「避けて蹴る」みたいな表現しかなかった。

 

 それが、現在のように、洗練された動きになり、洒落た名前が付くようになったのは、秋の収穫祭で、神に感謝するために奉納演武をし始めてからだという話だった。

 

 祭りの場で、手品師や舞踏家たちと交流することで、騙し技が取り入れられ、より深みのある動きに発展したそうだ。

 

 武道家(軍人)と舞踏家が交流することで、武道に舞の要素が取り入れられたし、逆に、踊りにも武道的な動きが取り入れられた。以前、NHKの能楽師が、六尺棒を持って蹴りを入れながら、棒の型をするのを視聴して、ひどく驚いたことがある。まるっきり、琉球古武道の型としか思えないような動きだった。

 

 

 武道と舞踏は、長い歴史の中で、お互いに強い影響を与え合いながら、発展してきたのだ。

 

 

 下の動画は、琉球王家秘伝武術、本部御殿手(モトブウドゥンディー)の上原先生が、琉球舞踊「浜千鳥」の動きを如何に関節技に応用するかを説明なさっている演武である。合気道や柔術を修行なさっている方々にも、充分に役に立つ動画なので、是非ご覧になり、研究して頂きたい。

 

 

 


続・稽古ノート 7  ― 武の舞

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 今日は、あいにくの天気の上、Y君の都合で稽古も中止になったので、自宅の部屋で舞の稽古に励んだ。日舞にせよ、能にせよ、舞の動きには、無駄というモノが全くなく、その足運びと腰遣いは、武道の役に立つものが多い。

 

 

 

 上の動画の(14:48)辺りから出て来る野村萬斎の動きは、殺陣とは言え、かなり秀逸だ。一流の舞踏家と言うのは、武道を学んでも、かなりの域に達する人が多いように思う。

 

 柳生但馬の守宗矩が家光に勧められ能を鑑賞した時に、最初は気が進まなかったが、観世太夫が舞い始めると、熱心に鑑賞し始め、途中で観世太夫の所作に隙が見えた時に、ニッコリ笑ったという逸話がある。これは、史実かどうかハッキリ分からない話らしいが、十分にあり得る話だ。

 

 柔道家の木村正彦が、バレエの公演を鑑賞していた時に、

 

 「あんなふうに、腰が回ればなあ。」

 

と言ったという逸話もある。

 

 

 琉球王家秘伝武術、本部御殿手(モトブウドゥンディー)の教えに、

 

 「極意の秘伝は剣にあり。武の頂点は舞にあり。」

 

という言葉がある。剣をとことんまで極めれば、最後は舞に行き着く。突き蹴りの攻防技術の習得、及び、剣や杖の稽古を通しての間合いの習得、更に関節技も併せて習得し、それを最終的に、一切の無駄を省いた武の舞にまとめるというコンセプトである。

 

 敵の間合いを先先の先で制すれば、相手を傷つけることなく制することが可能になる。本部御殿手の猿真似をするつもりは、毛頭ないが、このコンセプトだけは、福岡発の新武道の創出のために使わせて頂くつもりである。

 

 

 下は、福岡発祥の筑紫舞の動画である。この中に見られる扇舞は、どれも、武道に応用できるモノばかりである。初めて地元で筑紫舞を拝見した時は、かなり驚いた。その舞の中には、中国拳法の内家拳や沖縄空手の型(首里手)と共通する動きが、豊富に含まれていたからである。

 

 


続・稽古ノート 6  ― 合気・腰の回り・言霊

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 いつもの公園で、Y君と一週間ぶりの稽古をした。最近は、コロナウイルスの影響で、以前は多かった中国人や韓国人の観光客を全く見かけなくなった。その代わり、小学生や中学生の子たちを多く見かけるようになった。人が沢山集まる場所で遊ぶのも、どうかと思うが、青春真っ盛りの彼らに、一日中家の中にいろというのも、酷な話だ。

 

 それはそれとして、この日は、和道流空手の基本組手12本の改良版を指導した。改良したのは、実戦的な視点から見て、およそ使えそうもない部分を省き、効率的な動きを取り入れるためである。

 

 以前、和道流の道場に在籍していた時、T先生が、高弟の人たちから、「先生、他流派の動きを取り入れたら、どうでしょうか?」と提案されたと仰っていた。先生は、その事に関して、あまり強くは仰らなかったようだが、私には、

 

 「そんなに簡単じゃないんですよ。そもそも、動きの理屈が違うので、他流派の技をそのまま持って来て、取り込むのは、不可能なんです。」

 

と仰った。私もT先生と同意見であるが、高弟の人たちの気持ちもわかる。和道流は素晴らしい流派だとは思うが、実戦的な観点から見ると、少し、時々、かなり無駄な動きが多いと感じる事が、何度もあったからである。

 

 

 この事を今思い出したのは、私が、これから新たな武道を創生しようと考えているからである。出来上がった新流派の技術が、ツギハギだらけの未整理なものだったら、まず第一に、将来の弟子たちが、混乱するだけである。

 

 色んな流派の技術を学び、研究しながらも、取り敢えず、中心になる動きを一つ選択してから、後は実際に使いながら、自然に融合させていく方向で模索していくべきだろう。

 

 

 空手・拳法の稽古が終わり、Y君といつもの合気技の稽古・研究を始めた。Y君は、試行錯誤の甲斐あって、最近、大分私を動かせるようになって来たので、この日は、合気技の「核」に当たる部分を伝授することにした。つまり手品のタネを教えたのである。

 

 これを教えると、彼は、いろんな技で私を投げられるようになった。ただ、まだ脳が、新たなコンセプトについて行っていないので、動きは、まだぎこちない。手品のタネを知っても、すぐに手品を上手に演じられるわけではないのと同じ理屈だ。

 

 暫く、私を投げてから、彼が、印象的な事を二つ述べた。最初に、彼が言ったのは、

 

 「これ、知らない人が見たら、ヤラセに見えるでしょうね。僕自身、まだ信じられません。本来、人を投げるのには、力が必要だと思ってるので、鷹野さんが、わざと投げられてるんじゃないかと思ってますから。」

 

という事だった。力を使わずにイメージ操作で投げたり、固めたりするのが合気技なので、確かに、Y君の言う通りかも知れない。

 

 昔、柔道部の後輩が、

 

 「時々、乱取りや試合で、自分でも全く意識しないうちに体が動いて、相手が勝手に吹っ飛んでいくことがあるんですよね。」

 

と言っていたのを思い出した。多分、後輩のその時の動きは、無意識のうちに合気の理合いと同じものになっていたのだと思う。

 

 

 二番目にY君が述べたのは、

 

 「これを成田(新十郎)先生の『腰の回り』と合わせたらどうなるんでしょうか?」

 

というモノだった。そもそも、合気技と「腰の回り」は、全く違うモノだと思っていたので、彼のこの言葉には、意表を突かれた。

 

 取り敢えず、二つの動きを比較するために、両手を彼に引っ張ってもらい、まず合気下げをしてみた。次に、腰の回りを使って、やってみた。見様見真似なので、最初はうまく行かなかったが、Y君と気を同調させて、彼の引く力を彼の両足を通して大地に流しながら回してみると何とか出来た。合気下げの方は、意識して倒そうとしないと倒れないが、こちらは、相手が自然に倒れる感じだった。Y君も、

 

 「合気技の方は、導かれて倒されてるって感じますけど、こっち(腰の回り)の方は、『アッ!』っと思った瞬間に倒れてますね。」

 

と、感想を述べていた。彼は、無意識に、「倒されてる」と「倒れてる」と言葉を使い分けていたようだが、ここに、この二つの技術の根本的な違いが、表現されているように思う。

 

 次に、腰に抱き着いてもらって、腰合気を掛けてみた。こちらも、Y君は、「導かれて、倒されてる感じです。」と言っていた。次に、腰に抱き着かれた瞬間に、腰の回りで、彼の力を丹田と両足を通してアースさせてから、腰合気を使ってみた。すると、純粋な合気技よりも、かなり楽に倒せることが分かった。

 

 更に、この動きに横に広がるイメージを伴う「エー」の言霊を加えて、やってみた。

 

 こちらは、Y君が私の腰に触れるか触れないかという微妙な瞬間に、彼が勝手に、私の体から離れて飛んで行った。ここまで来れば、完全に超怪しい「ヤラセ武術」だ。しかし、彼が、私に触れるか触れないかという瞬間に飛んで行ったのは、紛れもない事実である。

 

 植芝先生の

 

 「合気道は、『天地自然の理』・『言霊の妙用』。」

 

という言葉を思い出した。先生の、もう一つのお言葉、

 

 「合気道は、『剣・杖の理合い』。」

 

の方は、二、三年、剣や杖をやり込まなければ、体で理解出来ないかも知れない。


続・稽古ノート 5  ― 剣・杖

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 さきほど、暗闇の中で、剣と杖の一人稽古を終えた。主に、神道夢想流杖術と神道流剣術を稽古している。

 

 神道流剣術は、本来、高段者が稽古するはずのモノだが、私は、DVDや書籍を参考にしながら、独学している。武道の独学はあまり良くないが、今は、道場に通う経済的余裕もないので、仕方がない。

 

 高段者がやるべき神道流剣術を初心者の私がやるのは邪道かもしれないが、独学しようと思ったのには訳がある。それは、杖術の組み形を稽古していた時に、打ちで木刀を使わざるを得なかったからだ。仕太刀の稽古のためとは言え、打太刀側も、木刀を使っているのに、それ自体の稽古が無いのは変だといつも感じていた。

 

 私と同時期に入門した人たちも、基本組形を稽古するときには戸惑っていた。私は、新陰流の経験があったので、それほど困ることはなかったが、それにしても些かの戸惑いがあった。神道流と新陰流とでは、太刀の使い方が異なるからだ。

 

 私が、神道夢想流を学んでいた当時は、まだ乙藤市蔵先生がご存命で、時々、直接ご指導頂く事もあったので、その疑問を先生にぶつけてみたが、先生は、口を濁してハッキリ答えては下さらなかった。

 

 

 もう一つ、疑問に感じていたことがある。先輩に自分が構えていた木刀を繰り付けられた時のことである。長年、琉球古武道の棒術を学んでいた私の感覚だと、明らかに棒術の俵返しのような投げ技に繋がる動きのように思えたのだ。その事を先輩たちに尋ねると、やはり同じように、口を濁して、ハッキリ教えてくれなかった。私が道場に在籍中も、最後まで、投げ技を目にすることはなかった。しかし、・・・・・・

 

 一つの武術を〔道場に入門して学ぶの〕と〔外から自分の学んだ別の武術の観点から観察研究するの〕とでは、その武術の見え方が全く異なる。

 

 日本に帰って来てから視聴した神道夢想流杖術の動画の中で、松井健二先生先生が、古流杖術の実戦用法を演武なさっている場面が出て来た。これを見て、私の直観が間違っていなかった事を確認できた。先生は、何度も演武相手を杖で投げていらっしゃったからである。

 


続・稽古ノート 4  ― 稽古中の事故

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 「事故」ってほどでもないが、和道流の基本組手の六本目をY君と稽古中に、私の上段突きが、Y君の額に当たってしまった。原因は、彼が、私の指示通りに運足を使わず、体を残したまま突きを受けようとしたためだ。

 

 私も、若い頃、和道流空手を稽古中に、T先生の人差し指一本拳が、目に入ってしまった事がある。幸い大事には、至らなかったが、この時先生の突きが私の目に入ったのは、私が中国拳法を修行中に近間で組手をする癖がついていたためである。

 

 Y君の場合は、私との位置関係が、私の場合は、先生との距離の取り方が間違っていたために、こういう事故が起きてしまった。

 

 

 これは、剣や杖などの武器術にも言える事だが、組手や乱取り、そして実戦は、相手との距離と位置関係で、全てが決まる。下手な距離の取り方をすれば、必ず、危地に陥るし、下手な位置に身を置けば、やはり、痛い目に遭う。正しい腰構えで、安全な位置を取ることが、肝要である。

 

 

 

 


続・稽古ノート 3  ― 剣・杖

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 下の映像は、神道夢想流杖道の清水隆次先生の動画である。(1:52)くらいまでは、ナイフや棒、パンチやキックへの杖術の実戦的な対応が見られる。

 

 どの技も、シンプルで、同流の組形で見られるような複雑で洗練された動きは、全く出て来ない。現実は、こんなもんである。これだったら、基本十二本の単独動作と相対動作、そして全日本剣道連盟制定の基本組形十二本の稽古をみっちりやり込んだ後に、防具をつけて乱取り稽古するだけでも、実戦で十分に戦えるのではないかと思えて来る。

 

 いや、基本組形十二本すら、必要ないかもしれない。

 

 

 中国拳法には、「千の技を知る者を恐れるな。一つの技を極めた者をこそ恐れよ。」と言う諺がある。松田隆智先生原作の劇画「拳児」(小学館)には、八極拳の使い手、李書文が、六合大槍の「攔・拿・扎」(弾く・引き込む・突く)という三つの動作だけを練り上げて、槍術の多くの型を習った先輩たちを手玉に取る場面が出て来る。

 

 私もこれに倣って、道場に習いに行く前に、神道夢想流杖術の基本を極めるつもりだ。(今は道場に通う金銭的余裕もない。)ただ、自分勝手な動きにならないよう、自分の動きをスマホで撮影してパソコンに保存し、先生方との動作と比較し、基本とずれているところは常に修正するよう心掛けねばならないが。


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