クモの巣  ― 太極拳の戦闘法

 JUGEMテーマ:空手道


 本日は、太極拳の戦闘法について、述べてみたいと思います。

 太極拳は、その戦闘法が、他の門派とは大きく異なります。たとえば、蟷螂拳の戦闘方法は、相手の攻撃を受けた所を支点にして、体を回し、相手の間合いに入っていく攻撃的なものです。

 一方、太極拳の戦闘方法は、蟷螂拳とは全く異なります。相手に対して、開合の動きで踊りながら、相手の攻撃を待って、自分の間合いに入って来た相手の攻撃を受けながら同時に攻撃する、どちらかと言えば、守りに主眼を置いた戦闘法を用います。

 つまり、クモが巣を張って獲物がそれに引っかかるのを待つのと同じような戦略をとるわけです。クモと太極拳の戦闘方法が違うのは、太極拳は、移動しながらでも、罠を張ることができる点です。もちろん、クモと同じように、同じ地点で踊りながら、敵が自分の間合いに入ってくるのを待つと言う戦略を取る事もできます。


 逆に、クモの巣に引っかかってしまった虫が取る逃避行動にも、太極拳と同じ動きが見出せます。

 私が、中国から帰ってきて、山にテントを張って暮らしていたとき、クモの巣に引っかかってしまった蝉を目撃した事があります。

 「助けてやろうかな」と思って見ていると、その蝉は、全身を激しく震わせて、クモの巣から見事に離脱しました。これは、陳家太極拳で言うところの抖勁、柔術で言うところの「身震い」と同じものでしょう。もしかしたら、昔の人たちは、こういう蝉の回避行動をよく観察して、上記の技を創り出したのかもしれません。


 見た目と違って、太極拳は、その威力が体の中に浸透して来る危険な拳法なので、このクモの巣に引っかかるとかなりやっかいです。

 しかし、この拳法にも弱点があります。それは、一旦動き出すと、太極拳の原理である開合の動きでしか動けないことです。それを逆手に取って、太極拳を封じ込める戦法があります。

 同じように、山で暮らしていたときに目撃したのですが、クモの巣に向かって飛んでいく大きなトンボを見た事があります。

 私が、「そのまま飛んで行くと、クモの巣に引っかかって身動きが取れなくなるぞ。」と心配しながら見ていると、そのトンボは、クモの網をサッと避けて、傍の潅木の枝に付着していた枠糸を羽で切って、飛び去って行きました。その瞬間、クモの巣は、見事にしぼんでしまいました。

 真正面から勝負せず、相手の弱点を攻撃する。武道の極意を見た思いでした。

 太極拳破りの秘術も、このトンボのように、クモの網の外側を攻撃するやり方なのです。老師は、よく「どんな事にも、必ず表と裏がある」とおっしゃっていました。長所は、裏を返せば、弱点になるのです。太極拳も、その例外ではありません。



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1814

剛柔流空手の型についての一考察

 

JUGEMテーマ:空手道

 

 

 久しぶりの武道に関する記事であります。

 昨日、自分が覚えていた白鶴拳と八歩連の型の気功法としての有効性に気がついたお陰で、剛柔流に伝わる型について、些か感じる所があったので、ここで少し私見を述べさせて頂きたいと思います。

 あれをやった時、何か違和感を感じたんですね。どんな違和感かと言うと、あの二つの型は、剛柔流の入門者が、三戦と転掌を学んだ後に、学ぶ撃砕からスーパーリンペーまでの型とは、明らかに一線を画した型じゃないかという感覚です。つまり、同じ流派の練習体系の中に、明らかに別系統の型が混在しているという印象を持ったわけです。

 八歩連の方は、中国の南派白鶴拳にそっくりの型が、そのまま残っています。白鶴の型も、そっくりではありませんが、かなりよく似た型が伝えられています。

 あれは、宮城先生が、福建省で白鶴拳を学んで持ち帰ったものだと言われています。

 東恩納寛量先生が、中国に渡ったことが事実かどうか最近は疑問視されているそうですが、同じ様に中国に渡って、パンガイヌーン(半硬軟)拳法を持ち帰ったと言われている上地完文先生が持ち帰った三戦は、手が開いているとは言え、剛柔流に現在伝えられている三戦と酷似しているところから見て、東恩納先生も中国に渡られたか、もしくは沖縄に渡来した中国人から学んだ事は間違いないようです。(東恩納先生が伝えられた三戦も、上地流のサンチンと同じように、初めは開手で演じられていたと言う説もあります。)

 剛柔流の三戦を学んで、その呼吸法と動きを活かして、型をレベルアップしていくとすると、一番しっくり来るのは、呼吸法の点から見ると、先の白鶴と八歩連ですし、より実戦的な応用法の点から見ると、三十六と十三だけです。

 あくまで、これは、私が体で感じた事で、武術史的には何の根拠もないものでした。

 そう思い、昼間、ネットで色々調べて見ました。どうも、私の勘は、それほど的外れでもなかったようです。

 剛柔流の撃砕からスーパーリンペーまでの一連の型は、三十六と十三を除いて、全て宮城長順先生の創作か宮城長順先生がどこかから持ち込まれたもので、東恩流には存在しなかった型だと判明しました。(スーパーリンペーに関しては、意見の分かれる所でしょうが、許田重発先生は、「東恩那先生は、ペッチューリンを教えたのであって、スーパーリンペーではなかった。」「スーパーリンペーは、スーパーリンペー。ペッチューリンは、ペッチューリンです。」と仰っているので、よく似てはいても、スーパーリンペーも別系統の型である可能性の方が高いと思われます。)

 「やっぱりね」と言うのが、私の素直な感想でした。それを裏付けるかの如く、上地流の型も、元は三戦・三十六・十三の三つしかなかったという事実も分かりました。(転掌は、ありません。)

 東恩納先生と上地先生は、同じ系統のものを学ばれたんじゃないでしょうか?

 昨日まで、私は那覇手という概念で、一括りに捉えていましたが、宮城先生が創り上げられた剛柔流空手は、それまでの那覇手とは異質なものだというのが、より真実に近いような気がします。

 剛柔流の入門者が、三戦を学んだ後に学ぶ転掌も、宮城先生が創作されたものだそうです。しかし、これに関しては、私は宮城先生の純粋の創作ではなく、何かを下敷きにして作られたものじゃないかと感じています。その「何か」とは、・・・・・・

 私が、中国に住んでいたころ、ブルース・リーの師匠であった葉問老師が伝承なさっていたものとは別系統の詠春拳の継承者と話す機会がありました。食事をしながら、彼と話していた時の事です。彼が、「日本の剛柔流空手は、拳ばかりを使う直線的な型しかないでしょう。」と半ば断定的に言ったので、私は、「それは、あなたの偏見だよ。剛柔流には、転掌という手の平を多用する曲線的な動きの型がちゃんとあるよ。」と言い返しました。すると、彼は私に見せてくれと頼んできました。

 すぐに立って、テーブルの横で、転掌を演じて見せると、彼は非常に驚いた様子で、「今日、空手に対するイメージが一変しました。これは、まるで詠春拳じゃないですか!」と言いました。

 転掌に関しては、中国で取った弟子のL君も、そして現在の弟子であるA君も、上記の詠春拳の継承者と全く同じ事を言いました。(白鶴拳にも、「八分(Bafen)」という転掌ソックリの型が残っています。) 

 
 宮城先生は、恐らく、東恩納寛量先生から学んだ上地流と同じ系統の空手に、詠春拳的な要素と白鶴拳的な要素、そしてよく出所が分からない別の系統の型を持ち込まれて、現在の剛柔流空手を創り上げられたんじゃないのかというのが、私の推論です。

 

 

※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1268


武道の智恵 補遺 続「寸止めルールの功罪」

  前回の「武道の智恵」で、寸止め組手について些か愚見を述べさせて頂きました。今回は、前回、言い尽くせなかった事柄を述べさせて頂きたいと思います。

 以前、私の先輩が一つの面白い話をしてくれた事があります。テレビで生中継されていたある寸止めの試合で、優勝した選手の決めの突きがスロー再生されます。その時、その選手の手は、キチンと拳を握ってはおらずジャンケンのパーのように相手の顔に向かって開いていたそうです。

 この選手は、脇でシッカリ握り締めた拳を素早く開いて相手の顔面に向かって出し、審判に悟られないように素早く拳を握り直して、脇に戻したのです。脇に再び拳を握りながら手を引いて、大声で気合を掛けて見得をきれば、審判に大きくアピールできる事をその選手はよく知っていたんだと思います。実際にやってみればよく分かりますが、こうすれば、拳を握ったまま突くよりも速く突けるし、突いた後見得も切りやすくなります。

 その選手が、故意にそういう突き方をしたのか、それとも審判にアピールし易い突き方をしようとして無意識にそうしたのかは分かりませんが、彼がその突き方で優勝したのは紛れもない事実です。

 もし、その選手が、その突き方で相手の顔をホントに突いていれば、間違いなく指を骨折しています。いかに空手がスポーツ化しているとは言え、これはちょっと酷過ぎます。これなら、まだボクシングやグローヴ空手の方がスッキリしてますね。キチンと相手の体に攻撃が当っているかどうかが一目瞭然だからです。

 実戦では、倒れている筈の相手が、寸止めルールのため倒れず、しかもその突きを審判が認めなければ、相手を倒していた筈の選手が負ける。こんなバカバカしい事が堂々とまかり通っているが、現在の寸止めルールの試合なのです。

 こういう矛盾に嫌気が差して、ボクシングなどのコンタクト系格闘技に流れていった人たちは少なくありません。かつて、アメリカンキックボクシング界で活躍し、その後アクション俳優に転向したベニー・ユキーデなどがそのいい例です。

 私が、若い頃通っていた上原先生の道場では、上記のスポーツ空手をやる人たちと古式の武道として空手をやる人たちがいました。つまり、道場が二極化していたんですね。

 何故、二極化していたのかと申しますと、上原先生の仰るような練習をしても寸止めの試合で勝てなかったからです。上原先生ご自身、空手部の学生と組み手をして、一本取られたことがあると西南大の空手部OBが話してくれました。

 相手が間合いに入って来たとき、先生は指先を相手の目の前で横に払われたそうです。実戦では、勿論、視力を奪われた相手が先生の次の攻撃を喰らって倒されていた筈です。しかし、寸止めのルールでは、そのような攻撃は一本とは認められないので、審判はその攻撃を認めませんでした。結局、そのまま入って来た相手の突きが先生の顔面に入って、先生は一本取られてしまいます。

 こういう事情があったので、古式空手の精神を説く上原先生の話をまともに聞く人間は、道場にも空手部にも殆どいませんでした。僅かに、私やC先輩など、古式武道に魅了されていた少数の人間だけが先生のお話に耳を傾けていただけでした。

 福岡武道物語此崚展石火」(http://koshiki.jugem.jp/?eid=156)に登場する私の先輩、I さんとTさんが、昔の仲間に拝み倒されて、一度だけ寸止めの試合に出場した事があります。日頃のお二人の強さをよく知っていた私達は、お二人のうちどちらが優勝するかをこっそり賭けていました。ところが、結果は・・・・・・

 お二人とも、あえなく一回戦で敗退でした。I さんは対戦相手に突きを当ててしまい反則負け、Tさんは、仲間内の組み手なら絶対に一本を取れている筈の突きを審判が認めてくれず、その突きの後から先輩の顔を突いた相手にポイントを取られて、大して強いとも思えない選手にあっさり負けてしまいました。

 我々も納得できませんでしたが、先輩達はもっと納得できなかったようです。お二人は、話し合って、知り合いの紹介で、寸止めの選手ともう一度、寸止めと防具付きの両方のルールで交流することにしました。

 知り合いの紹介で来てくれた四人の方は、九州でも結構トップレベルの人たちでした。防具付きで先に「交流」すると受傷事故が起きて、寸止めの試合ができなくなるかもしれないので、まず寸止めの試合からやり、次に防具付きの「交流」をすることにしました。

 I さんとTさんは、それぞれ二人を相手にすることにして、試合を始めました。審判は、公平を欠いてもいけないと言う事で、寸止めと防具付きの両方の流派の経験者に頼みました。そして、その結果は・・・・・・

 賢明な読者の皆様の予想通り、寸止めルールではやっぱり先輩達の負け、防具付きルールでは先輩達の圧勝でした。交流後、お茶を飲みながら皆で話し合いましたが、出た結論は「一つのルールの中で勝つには、そのルールに合わせた技術を身につけるしかない。」「寸止めの技術と、防具付きの技術は全く別物だ。」という事でした。

 自分達の実力不足で試合に勝てなかったのではなく、ルールに負けたのだという事を体で確認できたので、お二人ともやっと納得した様子でした。試合後、暫くお二人のご機嫌がかなり悪かったので、戦々恐々としていた私達後輩一同も、これでホッと胸を撫で下ろしました。因みに、交流を快諾してくれた寸止め側の人たちも気持のいい人たちだったので、試合後、互いに何の遺恨も残らなかった事も幸いでした。

 話を元に戻します。選手の安全を考えれば、寸止めルールを採用するのは止むを得ない事なのかもしれません。ですが、上記のような状態になれば、空手はルールに作られた格闘技ともスポーツとも言えない中途半端なものに成り果ててしまいます。

 かと言って、防具付きルールでの組み手では、首を痛めてしまいます。 

 解決策として私が提案したい事を、訓練の時間的な流れに沿って、以下に箇条書きしたいと思います。


 ―蘓桓圓砲蓮基本の突きや蹴り、受けだけを教える。その際、各基本の動きが重くなる ような訓練はやらせず、足腰や首・僧帽筋の鍛錬をシッカリやらせる。

 型ができてきたら、少しずつ実戦的な訓練を取り入れ、その際は防具を着用して、金的 や喉・後頭部や脊柱以外は、どこに当ててもいいことにする。 

 △侶盈を通じて、練習生達が、実際に攻撃が相手や自分の体に当る時のタイミング
 や感覚、そして間合いなどを把握できるようになってきたら、少しずつ技を重くする訓練を  やらせる。

 て佑蹴りが重くなってきたら、まず面だけを外し、顔面は互いに実戦的な間合いをよく   理解した上で、顔面を寸止めルールに切り替える。


 ぐ聞漾△匹α箸濕衫習を行うかは、指導者の考えと練習生の希望次第だと思います。胴も外して、完全に寸止めにしてもいいし、胴だけは残しておいて折衷ルールで練習してもいいでしょう。

 いずれにしても、これからの空手・拳法の指導者たちの責務は、寸止めの長所と防具付きの長所を上手に取り入れて、武道としての実戦的な要素を失わず、かつより安全に練習できるような訓練体系を作り上げていく事でしょう。

 また、万一受傷事故が起きた時のために、医師法に触れない範囲での応急処置法も身につけておく事も必要です。 



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=430

武道の智恵 補遺「寸止めルールの功罪」

JUGEMテーマ:空手道

 久しぶりの武道の智恵です。今回は、寸止め組み手の長短について、些か愚見を述べさせて頂きたいと思います。

 まず、寸止めのいい点ですが、これは組み手稽古における受傷事故を最小限にできる点でしょう。いわゆるフルコンタクト空手やグローヴ空手などでは受傷事故が多い事は、皆様もご存知の通りです。スーパー・セーフ等を使用した防具付き空手であれば、突き・蹴りを相手に当てても、ある程度は、安全性を保てますが、首を痛めてしまいます。

 寸止めルールであれば、実際に相手の肉体に突きや蹴りを当てる組み手とは違い、お互いに怪我の心配をあまりせずに組み合う事ができます。特に、古式の突き・蹴りは、かなり重く殺傷力も並ではないので、寸止めルールは、より安全に組み手ができる稽古方法だと言えるでしょう。

 しかし、これは、条件付での話です。組み手稽古をする人たちが、互いに実戦的な要素をよく弁えて寸止め組み手をやるのなら、問題はありませんが、そうでない場合は組み手がおよそ武道とは呼べない代物に堕してしまいます。

 私のブログ"Don't think. Feel !"(http://koshiki.jugem.jp/?eid=112)に登場するC先輩と一時期、拳法の練習を休んで、上原先生の道場に一緒に通っていたことがありました。ある晩、用事があって稽古に行けず、自宅で仕事の準備をしていた私のところに稽古を終えたC先輩がやって来ました。

 先輩の顔を一目見た私は、少し驚きました。先輩の左眉の部分が赤く腫れ上がっていたからです。私が、「どうしたんですか、それ?」と聞くと、先輩は、かなり憤慨した様子で「今日は、ホントに頭に来た!黒帯の奴と組み手をして、顔に一本入れたのに、そいつが目を瞑っててそのままこっちの顔を蹴って来やがった。頭に来たから、あいつの両腕を回し蹴りでガンガン蹴りまくってやったよ。」とおっしゃいました。

 先輩の話を聞いて、私もかなり不愉快になりました。その黒帯の人は、黒帯を締めているくせに、武道の何たるかが全く分かってないからです。実戦なら、その人はC先輩の正拳突きを顔面に喰らって、ノックアウトされています。それを、目を瞑って一本入れられた事に気付かず、蹴ってくるなどとは言語道断の所業です。
 因みに、C先輩に蹴られたその似非黒帯の両腕は、組み手の後で真っ赤に腫れ上がっていたそうです。

 その人は多分、恐怖心から目を瞑ったんでしょうけど、そういう寸止め組み手の大前提を弁えていない人の相手をさせられる方はたまったもんじゃありません。でも、私もこの人のことを余り悪くは言えません。何故なら、私自身も古式を始めるまで、組み手の最中に自分が不利になると、目を瞑ってしまう悪い癖があったからです。

 先輩たちに「危ないからちゃんと目を開けて相手を見ろ」と随分注意されましたが、恐怖心から来る癖なので中々矯正できませんでした。

 もっとも我々は、防具を着用して組み手をやっていたので、上記のような事故は起こりませんでした。ただ、目を瞑って相手が見えなくなった自分が殴られたり、蹴っ飛ばされたりするだけです。

 私のこの悪い癖に気付かれた老師から、ある時、電話が掛かってきて呼び出されました。老師は私にこうおっしゃいました。

 「鷹野君、君は組み手の最中に目を瞑ってしまう悪い癖がある。怖いから、目を瞑ってるんだろうけど、逆に危ないんだよ。その証拠に、君、目を瞑った瞬間に一本取られてるだろう?実戦だったら、ノックアウトされてるよ。もし相手が達人だったら、殺されてるよ。
 今日から、殴られても蹴られても目を瞑らないように気をつけなさい。むしろ、顔を殴られて倒れながらも、目だけは相手から絶対に離さないくらいの心積りでいるように。シッカリ相手を見ていれば、突きや蹴りを入れられても、反撃のチャンスを摑む事ができるかもしれないよ。」
 
 心にグサリ、グサリと来る老師のお言葉でしたが、どれも的を射たものでした。何も言えずに、ただ頷いただけの私に、老師はある練習方法を教えてくれました。それは、スーパーセーフの面を被って、老師がユックリと私の顔を殴るたびに、逆に目をカッと開いて老師を見る練習でした。

 この練習のお陰で、私は組み手の最中不利になっても目を瞑ることはなくなりました。老師のおっしゃったように、目を開けてよく見始めると、不利になってもまだ挽回のチャンスがあると言う事も少しずつ分かってきました。これほど、目を開いて相手をよく見るという事は、大切なのです。(「パンチレディーhttp://koshiki.jugem.jp/?eid=132参照)

 状況がシビアになって来ると、現実から目を逸らしたくなりますが、逆に落ち着いて状況を正視することが必要だと言うのは、実人生にも通じる武道哲学かもしれません。

 私が和道流空手を学んでいたT先生も、お若いころに、試合で相手に突きを入れたにも拘らず、相手がそれに気付かずに、前蹴りを放って来て腹を蹴られた事があるとおっしゃっておられました。帰宅して入浴なさる時に、先生がご自分のお腹を御覧になると、足型の青痣がきれいについていたそうです。
 
 そのことがあってからは、試合や組み手の時に、突きを引かなくなったと仰っておられました。こうすれば、相手が例え一本取られたことに気づかずに反撃してきてもすぐに対応できます。或いは、こちらの止めた突きに自分の方から顔面を当てに来てくれます。これは、T先生の経験から生まれた智恵ですね。

 C先輩が剣道を稽古なさっていた時、横から回り込んで攻撃しようとした相手に竹刀を構えたまま体を向けると、竹刀の切っ先がそのまま相手の喉にキレイに入った事があるそうです。無防備に突っ込んで行くと、空中に止まっている拳や竹刀に自分の方から当ってしまいます。いわゆる自滅ですね。

 上記の問題は、組み手の最中に目を瞑る事による弊害ですが、別の弊害もあります。それは、ちゃんと目を開けて自分が一本入れられた事を認識している筈なのに、「参った!」も言わずに攻撃を続けてくる輩がいることです。こういう人は、負けず嫌いなのか、あるいは寸止めの真の目的を理解していないかのどちらかなのでしょうが、一番イライラさせられる人種です。

 こういう人は、最初から寸止めルールで稽古しないで、まず防具付き空手かグローヴ空手をやって現実の厳しさを味わった方がいいですね。

 聞いた話ですが、ある時、空手三段の人が初段の人間と組み手をしている時、相手の突きや蹴りを捌いて顔面に何度も突きを寸止めで入れたにも関わらず、この初段の人は攻撃の手を止めなかったそうです。この参段の人は、三度までは我慢したそうですが、四度目にはとうとう堪忍袋の緒が切れて、この愚かな初段の顔に突きを当てたとのことです。組み手が終わって、この参段の人は、「アイツはバカだ。何遍も突きが顔に入ってるくせに、『参った』も言わずにかかって来やがる。ああいうバカには当てんとわからん」と吐き捨てるように言ったそうです。

 私が、最初に空手を学んだ道場でも、一本入れられて大きな声で「参った!」と言わなければ、襟首掴まれて「『参った』言わんか!実戦だったら、お前は殺されてるんだぞ!」と怒鳴られたもんです。技術も指導体系もデタラメな道場でしたが、これだけは正論だったと今でも思っています。

 先の組み手の最中に目を瞑る弊害にしても、自分の敗北を素直に認めない弊害にしても、全ては指導者の責任です。道場に入門した時点から、こういう大前提を道場生の体と頭と心に叩き込んでおくのが、指導者の当然為すべき義務です。こういう指導がキチンとできていない道場には通わない方が賢明です。不愉快な思いをするばかりでなく、お金と貴重な時間の損失と言う結果が待っているだけだからです。

 最後に、寸止めについてもう一言述べさせて頂きたいと思います。本来空手や拳法の突きは、手打ちするものではなく、体全体で突くものです。ですから、寸止めする時も、腕だけで止めることは不可能な筈です。では、どうやって止めるのでしょうか? 

 それは、拳を相手の急所の前で止めると同時に体を前に持って行く事です。もし、上段突きを相手の顔面で止めたら、相手とキスができるくらいに自分の体は相手に近づいている筈です。肘を曲げて、体全体を前に持っていく事でしか突きを止める方法はないからです。それでも、勢いが止まらない時もあります。その時は、軽くジャンプして相手の体の横をすり抜けるしかありません。「これを技だと誤解する人がいる」と老師が仰っておられました。どうです?古式武道って面白いでしょう?


 今は、実戦では絶対当たらない遠い間合いで、突きや蹴りを出さないと寸止めの組み手試合では、一本取ってもらえないので、上記の話のように当たる間合いで寸止めする事は無意味なのかもしれません。

 空手もすっかりスポーツ化してしまいました。何とも寂しいかぎりです。スポーツにするなら、スポーツでもいいんですが、それなら中途半端な事をしないで、名称を漢字表記の「空手道」からカタカナ表記の「スポーツカラテ」に変えて、自分たちがやっているのは、武道としての空手とは全く別物の立派なスポーツだと言う認識を選手たちに持たせた方が、まだスッキリしていると思うのは私だけでしょうか?

 スポーツだと言う認識を徹底させるために、服装も、空手着を廃止して、上下のトレーナーなんかにしてですね。

 福岡で沖縄小林流空手をご指導なさっている志道館の藤田信隆先生は、「寸止め組み手だけしか練習していない人は、実戦では通用しません。届かない間合いで突き・蹴りを出さないと試合で一本取ってもらえないからです。実戦で通用するような技術を身に付けるには、防具付の組み手経験が必要です。」とおっしゃっていました。

 そう仰っていた藤田先生ご自身も、お若いころ、型だけの練習に飽き足らず、防具付の組み手試合に出場なさっていたそうです。
 
 
 また、このサイバースペースでお会いしましょう。それまで、皆様、お元気で。
(*^_^*)




危機のない世界で、なぜ武道をやるのか

JUGEMテーマ:空手道

  平和な環境に身を置き、必ずしも武道の力を必要としない日々を送るならば、何が武道修行に身を投じるきっかけとなり、そして修行を続けるモチベーションとなるのでしょうか。

 護身術程度であれば趣味のつもりで習う人は少なくないと思います。しかしこれを実際に使うため、という目的で学ぶ人は現実には少ないでしょう。危険な状況に遭遇した際に最も適切な行動とは、とりあえずその場を離れる努力をすることだからです。それに実際に危険な状況を目の前にして心を平静に保つことは、それなりの訓練をしていない限り普通は不可能です。つまり、実用性を目的に護身術を学ぶ、というのは理にかなったことではないのです。一般的な防犯対策を講じましょう。
 
 さて武道一般の話となります。武道においては、弱い自分を強くしたいという欲求が、修行に身を投じる覚悟を生むものだと私は考えています。このコンプレックスの深さに比例するように、人は強くなろうとするものです。そして武道では日々の鍛練を通じ、昨日の自分を超えることにその意義があるのです。

 もし組手で相手を倒すことだけに意義を感じている人がいるとすれば、ある時点で武道が没頭する対象ではなくなってしまうでしょう。武道は格闘技ではありません。「若いときにだけできるもの」でも決してありません。武道は「生涯」というスパンで取り組むべきものです。そのために、昨日の自分を超えるという向上心が不可欠なのです。

 現在子どもを小さいときから空手道場に通わせる母親の中には、子どもの帯の色が変わることだけに興味を示す人がいます。結局母親である自分自身の見栄のために子どもに空手を習わせているのです。そして帯の色が変わらなければ何のためらいもなく指導者に不満を言ってくるのです。このようなことは、少年部を抱える道場であれば、どこにでもある問題なのではないでしょうか。私が思うに、武道は内発的な動機が生じたときに始めればいいのであって、まだまだ家族に優しく守られ、空手の必要性も何ら感じない小さなうちから取り組ませるべきものではありません。

 結局、生涯を通して取り組むという姿勢が武道では大事なのであり、ただ強くなればいいという精神性を欠いた態度であれば、武道に込められた深い知恵にも触れられず、それを実生活に取り入れることもできません。自分の周りにいる武道仲間は、果たして武道の道を追求する姿勢をもって日々の稽古に臨んでいるでしょうか。そして、あなた自身は...。
                                  (翔の作品)



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=389

道場の組織論: 向上心を維持するために

JUGEMテーマ:空手道

  成長には「限界」があります。ただこれは物理的なものではなく、「停滞」という意味での限界です。武道場に通う多くの人たちにとって、修行を続けるモチベーションとなるのは黒帯の取得でしょう。しかし問題はその先にあります。黒帯を取得すると、そこから果てしなく続く武道の旅が待っています。基本的に段をいくら重ねても、帯は黒から先の色がないために、客観的な部分での目標設定が難しくなります。
 
 そのため黒帯の取得後が進路の分かれ目となりやすいのですが、私が現在通う道場では、参段を超えたあたりから武道へのモチベーションが低下を始めるようです。このレベルとなるとだいたい社会人が多いのですが、もうそのほとんどの人が顔を出さなくなります。自分の中で一定の達成感を得て、それ以上のものを求める意欲がなくなってしまったのでしょう。

 しかしこれは一つの道場でずっと取り組んでいたために起こり得たことです。、仮に他の流派や武道との交流があり、目の覚めるような経験をすれば、まだまだ武道の奥深さを追求しようと強く思うでしょう。要するに一つの流派、そして組織の中に居続けたために、競争がなくなるレベルに達したとたんに向上心を失ってしまうのです。実際高段者の人たちはときどき思い出したように顔を出しますが、失礼ながらもう過去の遺産で生きているかのようです。覇気も気力も感じられません。

 人は勇気を出し、外の世界へ足を踏み出すべきです。繰り返しになりますが、人は組織の中で一定のレベルに到達すると向上心が失われやすく、その成長が「停滞」してしまうのです。

 これはどうも現在の日本社会の縮図を見ているようでもあります。外へ出ていく、いやそうでなくても「外に目を向ける」だけでも、今いる環境がぬるま湯であり、長居はリスクであると気が付くことができるでしょう。組織の枠から外れた自分は、どこまで行ってもまだまだ未熟なのです。

 「停滞」することなく、成長の旅を続けていきましょう。  (翔の作品)



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=388

稽古ノートをつくり、成長速度を倍にする

JUGEMテーマ:空手道 

 武道において実力をつけるには、良き指導者と巡り合えるかどうかが決定的な分かれ目となります。これは必ずしも道場を所有している人である必要はなく、正しい技術を身につけた先輩に指導してもらうとしても同じことです。正しい技術を正しい順番で教え、一つひとつの動きにきちんと意味を見出せるように指導してくれることが、修行者が指導を仰ぐ人の条件です。また組手を行うまでに、必ず段階を踏んだ指導をしてくれる人であるかどうかも非常に重要なポイントです。

 ただ、同じ師の元で修業をしながらも、成長のスピードには生徒によって大きな差が見られます。一度注意をされれば、きちんとそれを修正できる者。一方で何度同じことを注意されても誤りを修正できない者。人それぞれです。

 成長スピードが遅い人には何か共通の原因があるのでしょうか?私の観察では、「話を聞いているけれども、考えていない」というのが原因のようです。もちろん注意散漫で指導者の話を聞いていない、ということも考えられますが、道場では通常本人に直接話しかけ、注意やアドバイスを行いますから、「話を聞く」という状況は出来上がっています。しかしながら、そこから「内省し、きちんと指導者の言葉を自分自身に向ける」というプロセスが欠けている人が多いように思います。そのプロセスの有無が上達の速さを決定付けるにも拘らずです。

 武道は「誰もが強くなれる」のがいいところなのです。現に私自身、サッカーとテニスを練習しましたが、ずっと上手くはなれませんでした。それが沖縄の古式空手を学び始めると、運動へのコンプレックスは指導を受けるたびに克服されていきました。武道は本来スポーツではないのです。足が遅くても、球技が苦手でも上達には関係ありません。

 今、武道で上達の壁に阻まれ、道場に行くのが楽しくないなと思っている方々は、まず「ノートを取る」ことから始められるといいでしょう。最初は注意された点を書き留めるだけも構いません。きちんとメモを取るだけでも、読み返したときに「ああ、そうだったな」と自覚できます。これだけでも「自己修正力」が働くようになります。

 また次の段階としては、「形」の順序と動作を記録することが挙げられます。大半の人が、形を感覚的に覚えているだけなので、実際ノートに形の流れを書いてみると、理解があやふやなところが必ずいくつかは出てくるはずです。こうすれば、立ち方なり、引き手なり、これまで無意識でやっていたことに注意が向くようになります。この「無意識の意識化」を実践するには、ノートが恰好のツールになります。

 何はともあれ、まず注意されたことをノートに書きつけることです。それも稽古が終わったらすぐにです。また「形」をノートに記録するというのは面倒な作業に思われますが、上達を心から望むのであれば実践する必要があります。

 他の人は面倒でやらないが、自分は面倒でも実行すると言うのであれば、そこには人に差をつけるチャンスがあるのです。
                                  (翔の作品) 



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=373           

翔君へのメール 26 

  お久しぶりです。毎日いかがお過ごしでしょうか。
 
 今日はこれから台湾に2泊3日で行ってきます。
 空手の方ですが、先生からお借りしている少林寺拳法のDVDは大変参考になりました。攻防一体の技を早速組手で使いましたが、相手はまったく入ってこれなくなりました。あのインストラクターはすごいですね。

 小生も、六日の早朝から友人と一緒に内モンゴルにある扎蘭屯(チャーラントン)という所に行ってきました。チャーラントンはF君の故郷です。去年行ったハイラルや満州里と違って、草原は無くなだらかな丘陵地帯や500メートルほどの高さの山や森がある自然が豊かなところです。
 
 気温は30度くらいですが、カラッとした天気なので、日陰に入れば、かなり過ごしやすいです。日本に帰っても夏は毎年ここに来ようかなと思ったくらいいいところでした。F君の明るい性格もチャーラントンの明るい雰囲気が育んだものだという事がよく分りました。
 
 木の多いところだったので、友人も「長春に帰ったら、毎日南湖公園(友人のアパートの近くにある木の多い公園)を散歩しよう」と言いました。人間はやっぱり木の沢山生えているところで生活すべきだと今更ながらに感じました。
 
 ラフティングにも挑戦してきました。肉体的には疲れましたが、精神的には大いにリフレッシュすることができました。
 
 少林寺拳法のDVDは、時期が来れば、きっと翔君の参考になると信じていました。「対々の先」に関しては、新里勝彦先生も平安(ピンアン)の解説の中で全く同じことを述べておられます。是非再確認してみて下さい。
 
 十字受けを使っての「約束自由組み手」は所謂「後の先」の技術を磨くものなので、少林寺拳法の組み演武と同様にあれをいくらやっても、「対々の先」、ましてやその先のレベルの「先々の先」の技術には行き着きません。
 
 しかし、いきなり対々の先のレベルに行くことは不可能なので、まず、しっかりと受けの技術から「後の先」の技術を学ぶべきなのです。それから、「対々の先」の技を学ぶと隙のない安定した攻防一体の技を身につける事ができるのです。
 
 ここで、もう一度「対対の先」の技をまとめておきましょう。
 
 ーけと蹴りを同時に使う。
 
 ⊆けと突き(打ち)を同時に使う。
 
 A蠎蠅瞭佑を誘ってからのクロスカウンター
 
 ろ召卦察扮紳もしくは体捌き)と突き(打ち)技を同時に使う。
 
 ロ召卦察扮紳もしくは体捌き)と蹴りを同時に使う。
 
 特にい鉢イ蓮△靴辰り受けや躱し技を修行して相手の攻撃のタイミングを見切れるようになってからでないと怖くてとても使えないでしょう。
 
 実は、小生が翔君に預けた本やDVD、それから小生の勧めで翔君が買った本やDVD、小生との稽古ノートや小生のブログ・メール等は、全て稽古や実戦経験を通して翔君の意識が広がらない限り役には立たないものばかりなのです。
 
 逆に言えば、翔君が何かに気付いて意識が広がった時には、役に立つものばかりなのです。翔君が求めている真理は、いつも目の前にあるのです。このことをよく覚えておいて下さい。
 
 この事さえしっかり頭に置いていれば、小生がいなくても翔君は自分で道を切り開いていくことができるでしょう。翔君には、常に動きを是正してくれるY先生という素晴らしい指導者がいるのですから・・・


脱力を組み手で使う際の注意点 [其の三]

JUGEMテーマ:空手道 

 脱力を基本の状態として、そこから攻撃に入るには「呼吸」が大切になります。そして攻撃と呼気は必ず一致していなければなりません。息を吸うという、「押し引き」で言えば「引き」にあたるタイミングで攻撃すると中途半端な所作になり、威力も半減します。

 さて、その呼吸の方法ですが、剛柔流の型である「三戦(サンチン)」の呼吸法を応用することができます。組手で相手と対峙しているときに、口をわずかに開き「ハー」とゆっくり息を吐きます。もちろん相手に呼吸を悟られないよう行ってください。そして攻撃のタイミングを得たら一気に鼻から「スッ!」と吐きながら突き・蹴りを出します。この「ハー」というゆっくりとした呼気はいわゆる「呼吸のアイドリング」であり、攻撃のタイミングを逃さないための工夫です。

 これを読まれた読者の皆様は、こんな事をすれば、組み手の途中で息が上がってしまい危険なのではないかと思われるかもしれません。しかし脱力の状態であるために、筋肉を使った組手とは違い呼吸が上がることはほとんどありません。

 また、攻撃のときには「時間意識」を越える瞬間的な速さで突きを打ち込むと、相手は簡単には反応することができません。

 以上、脱力の状態からの攻撃方法の一例です。組手スタイルの革新を考えられている方は、是非脱力を組手に取り入れてみてください。

 (翔の作品


※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=1611

脱力を組手で使う際の注意点 [其の二]

JUGEMテーマ:空手道

  前回に引き続き、今回は筋力を用いた空手から離れ、脱力の方向へと自分のスタイルを変革する際に直面する課題についてのお話です。一度自分のスタイルを壊し、新たなものを再構築していく過程では様々な面で弱さや脆さが露呈するものです。

 特に組手においては一時的に遅れを取るようになるかもしれません。しかしこれはいわゆる「過渡期」の現象であり、破壊と再構築という過程では必ず生じるものです。そしてこの「過渡期」の存在を事前に知っておくと、一時的に真価を発揮出来ないからといって、途中で道を引き返すようなことはなくなることと思います。

 そもそも自分を変えようとしない限りは壁に直面することはありません。しかし新たな経験を重ねていく中で、それまでの自分の考え方や行動をリセットしなければならない場面は必ず出てきます。私にとっては大学時代のカナダ留学がその最たるものでした。「過渡期」というのは自分に確たる軸がなく、揺れ動いてしまう時期です。自信を失いかけますが、このときの「心の使い方」如何でぱっと道が開けるようなことも少なくありません。そこで是非、脱力を空手の軸としたい人にはこの続きを読んでもらいたいと思います。

 まず脱力を用いて組手をすると、相手からすれば「当たり」が弱いために、こちらに対する警戒心や恐怖心といったものが薄らいでしまいます。本来ならば相手の攻撃を受け流すことが理想なのですが、それまでの筋力を用いてきた組手のスタイルが簡単には抜けないために、相手とぶつかり合う形での組手をしてしまいます。そのため相手からすればぶつかっても痛みをさほど感じないために、こちらの間合いに遠慮なく入って来るようになります。

 そしてこのときに[其の一]でも述べた、腰の切れを主体としたフットワークが出来ていないと足が付いていかず、相手の攻撃を正面から受けてしまうことにもなります。そのため結局は手っ取り早く力を出せる筋力の組手をした方がいいという結論を出し、もとのスタイルに戻してしまいたいと思うこともあるかと思います。しかしここは我慢です。まだまだ頭を使い、突破口を見出すべく努力すべきところです。

 大事なのは、脱力により「力が出ない」と考えないことです。足の捌きについては「腰の切れ」で対応し、正面に出る動きは斜めに出る、さらに受ける際は当てて受けるのではなく「擦らす」といった風に変化させ、力に頼らない動きを追及して欲しいと思います。

 いずれにせよ、脱力を武道に取り入れることのメリットを見失わないことです。組手において自分よりも体格やパワーに勝る相手と戦うには、正面からぶつからないということが大前提であり、脱力を取り入れることで筋力に頼らない(必然的に頼れない)スタイルを構築していくことができるのです。

 では次回、脱力の状態からの攻撃についてお話します。       (翔の作品)



※この記事のURL: http://koshiki.jugem.jp/?eid=342

profile
calendar
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>
selected entries
categories
archives
recent comment
free counters
sponsored links
links
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM