大陸の風

JUGEMテーマ:エッセー・紀行文


 前回の「トイレ」に引き続き、中国で忘れられない思い出の一つは「列車」だ。
 都市間の移動においては、飛行機よりもバスよりも最も安価な列車が庶民の足となる。

 中国の列車にもランクはいろいろあるが、一番強烈なのは最低ランクの「硬座」だ。
 読んで字のごとく、「硬い座席」だ。
 これに20時間も腰をかけろと言われれば、誰もが躊躇する。
 最長では52時間乗りっぱなしだった人の話も聞いた。
 しかし、安いから仕方がない。
 乗るしかないのだ。

 列車の座席は向かい合って座るため、知らない人同士でも自然に友達になってしまうことが多い。
 自分で車内に持ち込んだ食べ物を知らない人に分けたりすることも自然に行われる。
 こういう座席配置は、日本だと気まずい思いがするが、中国では人見知りしてたら生きていけないので、近くの席の人には遠慮なく話しかけまくる。
 「どこまで行くの?」
 「どこ出身?」
 「仕事は何やってんの?」
 「今おいくつ?」
 「給料はいくらもらってる?」
 などと、日本では普通だったら考えられないような会話が展開されている。
 
 「どこから来たの?」と聞かれて「日本から来た」などと答えようものなら、周りから容赦なく怒涛のごとき質問攻めである。
 誰かがいちいち周囲に、「おーい、ここに日本人が乗ってるぞ!」とアナウンスしだしたら、もう大変だ。
 「おまえ中国語うまいなー」(外国人への第一声はこれだ。)
 「なぜ中国に来た?」
 「日本では給料どれくらいだ?」
 「家族と離れてさびしくないか?」
 「日本にもアイスクリームはあるのか?」
 「南京大虐殺って知ってるか?」

 これは極端な例だが、みんな列車の中ではヒマなので、それぞれ思い思いの時間をすごす。
 お菓子や果物をつまんで時間をつぶす人が多いが、ゴミが出ると床に投げ捨てるか、窓の外へ放り投げる。 
 りんごの皮、ビール瓶、ひまわりの種、汁が入ったまんまのカップめん・・・・
 気がつけば床にゴミが散乱している。
 そして列車の中でツバやタン、そして手鼻のあと・・・
 とにかくありとあらゆるものが床に散乱している。
 何時間に一回か、車掌が掃除して回るのだが、それでもすぐに汚くなる。
 さらに集めたゴミは結局窓の外へ放り投げられる。(意味ねえ!)
 
 列車のトイレは水洗ではなく、かといって汲み取り式でもなく、排泄物をそのまま車外に落とす仕組みになっている。
 だからトイレのドアには「停車中はトイレを使用しないで下さい」と書いてある。
 駅で停車中に用を足されては、駅が悪臭を放つからだ。
 つまり、列車の沿線はゴミと排泄物だらけということになる。
 

 中国の座席は全席指定だが、座席の切符が買えずに、「無座」といって立ちっぱなしでいいからとにかく乗りたい人のための切符もある。
(ちなみに私は3時間だけ立ちっぱなしを経験したことがある。)
 そのため、ギュウギュウ詰めのまま夜行列車が走る場合もある。
 席があれば座ったまま寝ればいい。
 しかし席のない人は我慢するか、椅子の下にもぐって新聞紙を敷いて寝るのだ。
 そして朝になったら何食わぬ顔で座席の下からゴソゴソ出てくる。
 しかも女の人も平気でこれをやってのけるから凄い。
 
 朝早く、勇ましい音楽とともに、ニュースが車内を流れる。
 みんな眠いのに、ニュースは大音量である。
 「みなさん、おはようございます!ニュースをお伝えします!江沢民国家主席は…!」
 誰かが「うるせえ!」と吐き捨ててスピーカーのスイッチを切った。 
 そしてまた同じ一日が始まるのである。
 
 こういう状態に何時間もいると、普通の人間ならおかしくなるところだが、それでも平然としていられるのが中国人民の逞しいところである。
 実際、発狂して泣き出して、車掌になだめられるオバサンを見たことがある。
 私も息が詰まる思いがして、列車の連結部分のところでブルーハーツを歌っていた。
 文字通り「気がーくーるーいーそーう」という感じだった。
 
 読者の中には、「そんな列車に乗ってられっか!」という声もあるだろう。
 しかし飛行機で移動するのでは、中国大陸の広大さは実感できない。
 列車で何時間もかけて移動してこそ、この国のでかさが分かるというものだ。
 何しろ飛行機よりも何十分の一という値段が魅力だ!
 ちなみに長春〜ハルピン間は3時間で20元(当時のレートで320円ほど)であった。

 また経済発展が著しい中国では、所得の増加とともに、こういう列車もおそらくは徐々に減っていくであろうと思われる。
 昔は日本もこういう座席だけの列車で夜を明かす時代があった。
 30年後、この「硬座」を経験した中国人や私のような外国人も、「そんな乗り物があったなあ」と懐かしむ日がやってくるに違いない。 (仁の作品)




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一刀は万刀に化す

  JUGEMテーマ:空手道

 


  あらゆる突きや打ちは、正拳逆突きから生まれます。
 

  あらゆる受けも、正拳逆突きから生まれます。
  

  あらゆる蹴りは、前蹴りから生まれます。
 

  実戦のあらゆる変化は、基本の立ち、運足そして腰の切れから生まれます。

  


 実戦的な練習を始めると一見無限に技が存在するように思われますが、本当は限られた種類の根本要素が組み合わされて、必要に応じて、無限に変化しているに過ぎません。

 「一刀は万刀に化し、万刀は一刀に帰す」という言葉は、このことを実に簡潔かつ的確に表現しています。名言ですね。

 徒に、多くの技を求めないで、「一なるもの」を身につけたいものです。
 

 

 

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波動の世界

 JUGEMテーマ:人生論


 「波動の世界」(http://koshiki.jugem.jp/?eid=7)の記事を書いた翌日、意識が半瞑想状態のままハローワークに仕事を探しに行きました。その日に見つけた会社の求人に対する応募者は、私が最初でした。条件のいい仕事というのは、大抵早い者勝ちのようなところがあるので、それだけでかなりラッキーでした。更に幸運なことに、その会社にあっさり採用が内定致しました。面接して頂いた方々にヒタスラ感謝・感謝であります。そして、Y君アリガトウ。

 なんとか瞑想や夢見の修行を続けていけそうです。生活と自分の理想を調和させることは本当に難しいものですが、自分の周辺の出来事によく注意を払い、流れを読んで動いていれば自分の念じていることは必ず実現するものです。

 人間は誰でも、状況がシビアになって来ると不安や心配に負けて、明るい未来を信じきれないものですが、そういう時こそネガティブな心理状態から自分を引き離し、自分の波動=ヴァイヴレーションを上げなくてはいけません。そうするのは、確かに困難ですが、でも事態を打開する為には、そうしなければなりません。

 私が若い頃、拳法を教えてくれた中国人の老師が、稽古を終えた後にこう教えてくれました。「相手と組んでいる時に、不利な状況に陥ったら、一旦下がって間合いを切れ!安全な位置でもう一度“気”を入れなおし、戦略を立て直してから再挑戦しろ。」

 この教えはあらゆることに適用できるかも知れません。
 この記事が皆様方の一助になれば、幸甚です。またお会いしましょう。




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大陸の風

JUGEMテーマ:エッセー・紀行文


 福岡に黄砂がやってきた。
 霞んだ空を見ていると、源泉地の中国を思い出す。
 最近は中国に出かける日本人も増え、その行き先のほとんどが大都市か観光地だと思う。
 しかしせっかく中国に行ったのなら、「トイレ」と「列車」を是非経験しておいてほしい。
 今日はトイレに関する話である。
 途中でややデリカシーのない内容も出てくるが、引かずにお付き合いいただきたい。

 有名な話だが、中国のトイレには扉のない所が多い。
 最近はどうなのかよく知らないが、私がいた五年前は東北の長春という都市にも扉無しのトイレがあった。
 扉はあったとしても、扉の高さが1メートルもない所もあった。
 また、体が隠れるくらい大きな扉があるにも関わらず、開けっ放しで用を足す人もいた。
 話には聞いていたが、初めて見たときはカルチャーショックどころではなかったのを覚えている。
 むしろショックなどという生易しいものではなく、リアルに「衝撃」といったほうが語感的にふさわしい。

 最近はオリンピック開催の影響もあって、扉のあるトイレが増えているという。
 確かに扉があって清潔なトイレもある。
 特に大都市のホテルはそれが当たり前である。
 しかし今まで見た中で一番強烈な印象として残っているトイレは、長春郊外の「北方市場」というマーケットで見たトイレである。
 
 まずトイレに近づくと、その臭いにまず鼻をやられる。
 次にその中に入ると、さらに唖然とする。
 男性用のトイレは小と大にもちろん分かれてはいるが、小はただ溝が掘ってあるだけ。
 
 さらに強烈なのは大のほうだ。
 扉はなく、ただ敷居と溝があるだけ。
 個人のスペースが10個ほどズラーっと並んでおり、人々はみな壁に背を向けて用を足す。
 しかもその敷居も1メートルの高さもない。
 壁に背を向けて前向きで用を足すのが中国のマナーで、顔を壁に向けて後ろ向きで用を足すのは失礼であると確か中国の友人から聞いた。
 郷に入りては郷に従えというが、これではトイレに足を踏み込んだ瞬間に、用を足している人と目が合うので、非常に気まずい思いがする。
 もちろん便座はないので、しゃがんで用を足す。
 排泄物は溝に落とす。
 各スペースの溝はすべてつながっており、何分かに一回に水が流され、排泄物を一気に流すのである。
 川上にいればまだいいが、川下にいるときに水が流されたら最悪だ。
 自分の下を全ての人の排泄物が水に乗って通過していくのだから。
 もちろん備え付けの紙などない。
 すべて持参である。

 断っておくが、中国人自身も別にこのようなトイレを正当化はしていない。
 私がこういう話をすれば、特に大学生などのインテリ層は反発する。
 「そんなトイレは田舎のトイレです!」
 彼らからしてみれば、日本人が中国を「発展途上国」であるとして見下しているように感じるようだ。
 扉のないトイレは経済的に遅れた中国の象徴である、と彼らの祖国の恥部として認識しているようである。
 しかしこれは恥部というよりも特性である、と私は捉えている。
 その理由は、ただ単に日本には見られないから、私としては衝撃だったのだ。
 ただ、中国人自身がそのようなトイレが嫌ならば、変えていけばいいと思う。

 また日本人の中でも「そんなところで用なんか足せるか!」と言う方もおられるに違いない。
 しかし我慢できないときは贅沢など言ってられない。
 もう笑って異文化を楽しむしかない。
 銭湯に入るときと同じ感覚でいくしかない。
 そうすれば不思議と用は足せるのである。
 ここで用が足せたとき、あなたは単なる「中国滞在の外国人」という領域を越えることになるのだ。
 
 これから中国へ行くという方、また中国滞在中でまだ扉無しのトイレは経験したことのないという方に是非お勧めしたい。
 次回は「列車」のお話。乞うご期待!  (仁の作品)



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北の大地から



仁です。久々の書き込みです。
私は龍さん翔さんとは少々違うことを書きます。

一昨日の夜ニュースを見ていたら、北朝鮮のケソン工業団地に関する報道を行っていた。
タイトルは「ケソン工業団地 核開発の陰で何が」。

ケソン工業団地というのは、軍事境界線のすぐ北側にあるケソンという都市にある韓国資本の工業団地である。
取材されていたのはアパレル工場。
労働者はみな北の人間である。
そのうちの一人がインタビューに答えていた。
「同じ民族の人と仕事ができて嬉しいです。」
韓国人資本家もインタビューに答えていた。
「中国製よりも質がいい。レベルは南(韓国)の90%のところまできている。」
しかし韓国側から北の労働者に払われる賃金は低い。
一括して北朝鮮政府のところに預けられるためであるという。
これが事実ならば、まさに「搾取」と呼ぶべき現象であると言えよう。

レポーターはこの工業団地に関連して、「周辺諸国が協力して北朝鮮の核開発を阻止しなければいけないのに一方的に南北の経済協力だけが進んでいる」という類の報道を行っていた。
いわば、「韓国の支援による北朝鮮経済の回復(?)と、それを梃子にした核開発」への警戒感を滲ませた報道であったといえる。

こういうことを書くと、「おまえは朝鮮人か!」という声が聞こえてきそうだが、私は日本人である。
というよりも、なに人であろうと大きなお世話だ。
北朝鮮関連のニュースを何でもかんでも核開発に結びつけないと気がすまないのか、
飽き飽きしてくるタイトルである。
拉致や核開発は確かに問題だが、日本のマスコミの報道の仕方にも問題が多く、とにかく目に余る。
2002年9月以来、北朝鮮に関するニュースは何でも悪い方に報道しないといけない、というようなマスコミ間の調停でも出来たのか。
それまで北朝鮮に対する批判は暗黙のご法度となっていたため、それによる反動がここ五年間のマスコミの「北朝鮮悪玉論」に拍車をかけているといえよう。
いずれにしても、極端というものは恐ろしい。

さて、ケソン工業団地は何年も前から韓国のメディアが取り上げていた。
いわば堂々とやっているので、別に「核開発の陰」でも何でもない。
日本のテレビもようやく取材が許されたのか?
それともただ遅れただけなのか?
それにしても「いまさらかよ」という感は否めなかった。

「中国製よりも質がいい」とのことだが、これには別の証言がある。
重村智光(2006)『朝鮮半島「核」外交』講談社文庫発行、213ページには次のように書かれている。
「確かに賃金は安いが、生産性がかなり低いという。1日100個の製品を生産しないといけないのに、20個しかできないのが現状という。
(中略)この工業団地には北朝鮮の経営者や企業との合弁会社はほとんどない。だから、北朝鮮のビジネスマンや労働者が、企業経営や市場経済を学ぶ機能をほとんど果たしていない。単に、賃金などの外貨を入手する場所でしかない。」

伝聞による記述が多いために信憑性が若干揺らぐが、その韓国人資本家の言葉にも信憑性が欠けるのは事実である。
生産性が低いとすれば、その製品は安くても売れない可能性が出てくる。
ここに進出している韓国企業はいずれは撤退をすることも十分にありうる。
単なる北朝鮮政府の外貨目的であっては、韓国企業には利点がない。
北朝鮮政府は、生産性の引き上げ、または次なる外貨獲得の方法の確保、のいずれかの選択を迫られるに違いない。
この工業団地が今後の北朝鮮経済を左右する場所になるかどうかは、まだ時間をかけてみないと分からないだろう。

「取れるものは取る、という北のしたたかさが見え隠れする」
とリポーターは締めくくった。

これは北のしたたかさというよりも、南北双方の利害関係が一致した結果ではないのだろうか?
ただ単に「国益」を追求しているに過ぎない。
国家が国益を求めるのは当たり前である。
北朝鮮に外貨を持っていかれたくなかったら、日本としてどういう対応措置が取れるのかを提示するべきではないのだろうか?
さらに姜尚中教授の言葉を借りて言わせてもらえば、これを「北のしたたかさ」というならば、
朝鮮戦争による300万人の犠牲を踏み台にして、特需景気に湧いていたのは一体どこの国なのだろうか、という疑問も出てくる。 (仁の作品)



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竹島問題

 JUGEMテーマ:韓国


 これは、私が小学5年の時の話であります。在日韓国人の同級生が「クワガタがよく取れるところを見つけた。」と言うので、彼に案内してもらって二人でそこへ行くことにしました。現場に着いてみると、そこはちょっと変わった地形の場所でした。ちょっとした山林の端に小さな小道があり、その小道を挟んでクヌギの木や様々な灌木がその小山に沿って茂っているのです。

 クワガタがいるのは、そのクヌギ並木の一番端だ、と彼が言うので、自転車を降りてすぐどちらからともなく、そのクヌギ並木の一番端に向かって走り始めました。自慢じゃありませんが、少年のころは足には自信のあった私であります。当然彼より早く目標の場所に到達し、木の下にへばりついてるオスのクワガタ君を見つけました。でも、焦ってたんでしょうね。そこに着いた途端に前のめりに倒れてしまいました。

 しかし、執念でサッと顔を上げてそのクワガタ君をワッシと摑みました。すると、私のすぐ後ろからやって来た在日の彼が、「そのクワガタは僕が先に見つけたけん、僕のもんよ。」と言って譲りません。私も負けずに「あんたは俺の後ろから走って来たっちゃけん、あんたが俺より先に見つける訳なかろうもん。」と言い返してやりました。(スイマセン九州弁で(>_<)。)でも、彼が正しかったのかも知れません。彼は斜め後ろから、私より先に見つけていたのかも、そして前のめりに倒れた私を後ろから来た彼が見ると、倒れて顔を上げた所にいたクワガタを私が偶然見つけたように見えたのかもしれません。

 今考えても、どちらが先に見つけたのか断定できません。もしかしたら、同時だったのかも知れません。神のみぞ知ると言ったところでしょうか。

 大人になってこの出来事を思い出し、考えたことは、世の中にはハッキリ白黒つけられない状況も存在するという事と、人間どうでもいい事で目くじら立てていがみ合うものだという事であります。

 このエピソードの場合、日韓両国の少年が小さな虫一匹をめぐって激しく口喧嘩をしたということであります。しかし、この二人の少年にとってこのクワガタは決してどうでもいい存在ではなく、その所有権を絶対他人に渡したくない存在だったのです。まあ、大人から見ればどうでもいいんですけどね・・・。(^_^)



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禍福は糾える縄の如し

 JUGEMテーマ:人生論

 


 これは、私が大学生だったころの話です。夜11時半過ぎに、バイトが終わって、私は帰宅するためにバス停に急ぎました。バスの最終が、当時は11時40分くらいだったのです。何とか、11時35分位にバス停に着き最終バスが来るのを待っていました。結構ハードなバイトだったので、これでやっと家に帰って風呂に入れる、と思いながらホッとしていました。そして42分頃にバスがやって来ました。ところが、信じられない事にバスは私が待っているバス停の前を素通りして行ったのです。

 そのバス停から自宅まで歩くと少なくとも一時間半近く掛かります。唖然としてバスを見送っていると突然タクシーが私の前に停まり、若い運転手さんが窓から顔を出して「最終に乗り損ねたんだろう。追い抜いてやるから乗れよ。」と言ってくれました。天の助けとはまさにこの事であります。私は、「スイマセン、お願いします。」と言ってそのタクシーに飛び乗りました。彼は前を走っていたバスを追い越し、次のバス停まで走ってくれました。私が「いくらですか?」と聞くと、その親切な運転手さんは「金はいらんよ。早く下りんとまた乗り損ねるぜ。」と言ってくれました。私は急いで礼を言い、タクシーを降りて、バスが来るのを待ちました。

 バスは、すぐにやって来ました。今度はちゃんと停まったので、無事バスに乗ることが出来ました。乗ってからすぐに運転手のところに行き、一つ前の停留所で素通りされたことの苦情を言うと、彼は、こう言い放ちました。「俺が見た時は、誰もバス停にいなかった。」「俺は見えやすい所にちゃんと立ってたんだ。あんたの不注意だろ。」と言い返しましたが、彼は黙り込んだだけで、謝罪の言葉は最後まで口にしませんでした。まだ若く血気盛んだった私は、思わず奴の顔に正拳突きをお見舞いしたくなりましたが、グッとこらえました。

 この日起こったことを私は一生忘れないでしょう。なぜなら、信じられないような不運と信じられないような幸運を同時に体験したのですから。

 

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武道の稽古と英会話力

JUGEMテーマ:語学習得


 今日は私が古式空手を始めた頃の練習風景を紹介します。

 まず足腰を徹底的に鍛えることを師匠より言われました。
最初の半年は「立つ」「歩く」「腰のキレ」などの動作を繰り返し反復しました。
当初は「立つ!?」と聞いて何のことだろうかと不思議に思いました。これは空手の立ちです。猫足立ち、四股立ち、騎馬立ちなどを「きついが我慢できないことはない」という状態である限り続けるというものでした。とはいっても猫足立ちであればひとまず3分継続できるようになればいいとのことで、無理をせずこつこつと3分間立てるようトレーニングしていきました。

 「歩く」というのは「猫足立ち」や「前屈立ち」の姿勢で行います。
「腰のキレ」とは、後屈立ちから前屈立ちへ重心をシフトする際に、腰を90度切る動作です。この時の力が「突きの威力」に反映されます。

 古式の道場では昔、これらの動作を数年間ひらすら繰り返したそうです。普通は早く派手な、かっこいい技を学びたいと思うものでしょう。現在ではこのような教え方は通用しません。練習生のほとんどはすぐに組み手をさせてくれる道場へ移ってしまうからです。

 私の場合、師匠は古式の伝統の中にある「指導における遊びの要素」を適宜取り入れ、私が退屈しないよう常に配慮してくださいました。このことは後から知りましたが、今振り返り本当に恐れ入るところです。実際足腰という「基礎」の上に上半身の動きや技が乗りますので、足腰が完成する以前に学んだ上半身の技術は質的に軽いものとならざるを得ません。また回転後ろ回し蹴りなど腰が十分に出来上がっていないと使えない技も数多くあります。

 さて話を英語の事に変えますが、英語においても古式と同様、基礎を徹底的に作り上げる必要があります。英語を話せるようになるには、まず基本的でシンプルな文を徹底的に音読し、使えるようにならなければなりません。例えば次の英文を見てください。

 My aunt who lives in Tokyo is a teacher.

 この英文を覚えたからといって、すぐに会話で自在に使うことができるでしょうか?
まずは次のようなシンプルな文を容易に使いこなせるよう何度も音読することが必要です。

 I have an aunt.  I have an uncle.  I have a nephew.

 She live in Tokyo.  He lives in New York.  He lives in London.

 She is a teacher.  He is a lawyer.  He is a doctor.  etc.

 このようなシンプルな構造の文を多様に変化させるパターン練習を何度も何度も行います。そして関係代名詞を学び、文をつなげて話す練習をします。

 このような基盤があると、My aunt who lives in Tokyo is a teacher.という
文を生きたものとして会話の中で無限に変化させて使うことができるようになります。
例えば My niece who lives in Chicago is a dentist. のようにです。

 上で述べたような基礎がないまま My aunt who lives in Tokyo is a teacher. という英文を覚えても、会話ではいつまでたってもこの形のまま、自在に変化させることは非常に困難でしょう。少しは変化させることができたとしても、基礎という蓄積がないため頭打ちとなってしまいます。

 英語は武道と同様、使えるようになるためには確固たる基礎が必要不可欠です。

 学習は焦らず、じっくり取り組んでください。          (翔の作品)




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武道から学んだ「努力」 -続き-

JUGEMテーマ:空手道

 


 武道における「脱力」が、私の努力に対する見方を変えました。
 さて武道で脱力が欠かせない要素である理由は様々考えられますが、いくつか挙げて
 みましょう。

   崕鼎機

 試しに上半身の力を完全に抜いた状態で、腕を遠心力にまかせ思いっきり横から振ってみてください。誰かに受けてもらったら分かりますが、上半身に力を込めて突きを放った場合と比べ、確実に重いはずです。脱力することにより、「腕の重み」と「遠心力」を味方に付けました。「自然な動きが一番強い」- これは師匠より学んだことです。力を入れると、筋肉が腕の重みや遠心力も奪ってしまいます。「力で押すような突き」 - これは武道の突きではありません。これについてはまた別の機会に詳しく述べたいと思います。

 ◆ 崑里鬚い燭錣襦

 上半身に力を入れた武道を長く続けると、体に多大な負担をかけます。「燃えよドラゴン」でブルース・リーが要塞島に到着するシーンがあります。そこでは数十〜数百人の集団が掛け声に合わせ一斉に突きの練習をしています。彼らの上半身を見てください。肩には力が入り、あまりに窮屈な姿です。繰り返しになりますが、武道は筋力ではありません。筋肉は年を重ねるにつれに確実に衰えます。若い時にだけ強いようでは、それは武道ではなくスポーツだと言わざるを得なくなってしまいます。また実戦でのケースを考えてみましょう。筋肉に頼るとその分酸素を消費し、簡単に息が上がってしまいます。特に多人数を相手にする場合、「脱力」の重要さを認識できると思います。

  「心の脱力」

 「脱力」は肉体だけではありません。心においても必要です。緊張感をなくすという意味ではありません。危険を正しく認識することは大切ですから、ある程度はぴりっと気持ちを引き締めます。「心の脱力」とは、戦う前から「この技を使ってやろう、相手はどう動くだろうか、勝てるかな」などと余計なことを考えずまっさらな心の状態を保つことです。あれこれ考えると動けなくなってしまいますから。実戦は頭で考えたシナリオ通りには決して展開しません。これまでの蓄積を信じ、それが「出る」にまかせることです。

     長くなりました。これを努力の仕方に当てはめて考えてみましょう。

  [磴┐佇拔をする際、肩や目、頭にさえも力が入っていないでしょうか?それらをまず意識し、力を抜くように努めてください。「これから勉強するぞ!」と構えてしまうと確実に力が入ってしまいます。それでは成果があがりません。試しに目や頭部に力を入れて勉強してみてください。脱力した場合に比べ、学習内容が頭に入りにくいと思います。

 ◆ 崔ξ蓮廚砲茲辰童こりやペンを握る手の疲労が大幅に減少し、勉強の持続力が上がることに気が付くと思います。集中力にも注目してみましょう。「集中する」と聞くと、思わず体に力が入りこわばってしまいませんか?これでは短時間で疲労し、持続力は期待できません。集中とはある意味「瞑想状態」です。体の力はしっかり抜けており、同じ状態を長時間、それも無理なく持続できるのが理想です。

  先ほどの,亡慙△靴泙垢、勉強する前から「構えない」ことです。実戦においてこちらが構えると、相手もそれに反応し構えを取ってしまいます。これにより間合いに入るのが難しくなってしまうのです。私たちの武道ではまず基本をしっかり終えた後、構えない状態からの突きを練習します。見えないところからスッと突きが出てくるので、相手には受ける余裕もありません。勉強においては構えず、スッと取り掛かりましょう。何ページから何ページまで、何時までに終えると決めたらあとはスッと第一歩を踏み出すのです。「途中で疲れないかな、分からないところがあったらどうしよう」などと余計なことは考えません。

 これが私が武道から学んだ「努力の仕方」です。力を抜いた状態が最も大きな成果を生みます。武道においても、勉強においても。もちろん仕事においてもそうでしょう。一生懸命という言葉は好きですが、いつもこれでは体も心も持ちません。「静かな気迫」をもって淡々と前へ前へと進んでいくこと、これが私を特徴づけるスタンスの一つです。

 (翔の作品)

 

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波動の世界

 JUGEMテーマ:スピリチュアル


 Y君は、私の高校の時の同級生です。ハローワークに仕事を探しに行った帰りに、急に彼の顔が頭に浮かんだので、彼の経営する会社に立ち寄ってみました。受付嬢が「3階までお上がり下さい。Yが居りますので」と言うので、3階まで上って行くとY君がニコニコ笑いながら私が上がって来るのを待ってくれていました。実に約5年ぶりの再会であります。開口一番「そろそろアナタが来る頃じゃないかと思ってたよ」と不思議なことを言うではありませんか。

 このY君は、私にとって実に不思議な友人で、私の人生の分岐点でいつも必要な情報を与えてくれる人なのです。そして、今回も・・・

 私の窮状に耳を傾けてくれた後、彼は、彼自身のそして彼の周辺の霊的な出来事について語り始めました。その話自体とても興味深い話だったのですが、話の内容よりも彼が語った霊的な話の雰囲気というか、ヴァイヴレーションのようなものが強く私に影響を与えました。今、現在、厳しい状況にいるので余計にそう感じたのかもしれませんが、普段なら「フーン、面白いね」くらいで終わってしまう話が何故か魂の奥底まで沁みてくるのです。

 そして、話が終わりかけた時、彼が今の私にとって最も必要なメッセージをくれたのです。それは、「自分の人生を決めるのは自分自身が発している波動である」というものでした。何か悪いことが起きると人間は、自分のことを棚に上げて他人のせいにしたくなりますが、全ては自分自身の(低い)波動がそういう出来事を招き寄せているのだ、と彼は自分自身に言い聞かせるように私に語りました。

 勿論、長年、夢見や瞑想に取り組んできた私です。彼が言ってくれた程度のことは、いろんなところで読んだり、聞いたりはしていました。しかし、経営者として、毎日さまざまな問題に取り組んできた彼の口から語られると、よく知っていると思い込んでいた言葉が全く違う言葉のように私の心に沁み込んで来たのです。

 物事を知っているということと真に理解しているということは、全く別のことなのだと改めて思い知らされました。

 そして、不思議な現象が起こりました。彼に別れを告げて、地下鉄に乗り、自分の降りる駅で降りて、帰路に着いた時、いつも見慣れた風景が全く違って見える事に気づいたのです。そして自分自身の心も化学変化を起こしていたのです。修行を続けていくための条件が揃った仕事がなかなか見つからずイライラし始めていた私の心が少しずつ落ち着きを取り戻してきたのです。落ち着きを取り戻してくると、一つの考えが頭に浮かびました。それは、「そうだ。こんなイライラと焦った心の状態で探しても、いい条件の仕事なんて見つかるはずがない。自分自身のヴァイヴレーションを上げれば、状況も変わるはずだ」というものでした。

 この理論は、まだ仮説にしか過ぎません。これから私自身の人生で正しいか否かを検証するつもりです。結果が出たら、またこのブログでお知らせします。

 もしこのブログが現在私と同じ状況にいらっしゃる方々の一助になれば幸甚です。




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武道から学んだ「努力」

JUGEMテーマ:空手道


 こんにちは、翔です。皆さんは「努力をする」という言葉を聞いて、どんなイメージが頭に浮かぶでしょうか?私は武道を始める以前、次のようなイメージを持っていました。

 「目や肩に力を入れ、汗を流しながら頑張ること」

 実際に昔、英検1級の合格に向かって勉強をしていた頃はひたすらにテキストを読み込み、がむしゃらに音読をし、単語も頭が疲れて眠たくなるまで必死に覚え込むという生活を続けていました。ちなみにこの時は学生時代です。勉強の充実感はしっかりあります。しかしその疲労から大学の学業、アルバ
(翔の作品)イト、サークル活動へのエネルギー、そして人と話しているときの集中力にも影響が出始めました。正直バランスが取れた生活が送れていなかったと思います。

 さて武道の話です。私たちが行っている武道は古式という沖縄伝統空手と、中国拳法の動きをミックスさせたものです。「打つとき、蹴るとき、動くとき、すべてにおいて力を入れない」− この教えを受けた時は自分の中の常識が覆りました。筋肉の量、体格の大きさ、そして瞬発力が武道の強さを決めると思い込んでいたからです。とにかく徹底的に脱力することと、その方法を師匠より繰り返し指導頂きました。なぜ脱力が必要なのでしょうか?この「脱力を覚える」という経験が、私の「努力」に対する見方に大きな変化をもたらしたのです。       -続きます-
                                  (翔の作品)




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神秘主義と現実主義の調和

  JUGEMテーマ:スピリチュアル


 私、20年ほど前から、夢の研究を本格的に始めました。最初の頃は、たかが夢と侮っているようなところがあって、夢日記をつけてそれを専門書や夢解き辞典で解釈すればことが足りると安易に考えていました。ところがどっこい、いざ始めてみると夢の世界は自分が想像していたよりもはるかに広大な領域を有していることに気づかされました。

 警告夢・予知夢・霊夢・元型夢・啓示夢・示夢・明晰夢・前世想起夢(これは私の造語です)・象徴夢・透視夢・テレパシー夢等など枚挙に暇がありません。また、夢に注目することによって現実生活にも多くの有益性を齎すこともあって、そういう広大な領域に魅了され、その研究に没頭することになったんですが、そこには同時に危険性も潜んでいました。

 夢の世界に入り込み過ぎることによって、現実的なものの見方や行動が取れなくなってしまったのです。もっとはっきり言うと、夢の効用に幻惑されて、夢分析やドリーム・コントロールを狂信してしまったんですね。

 これから、夢日記をつけてみようとか、夢分析をやってみようと考えてらっしゃる方は、専門家の指導を受けるか、もしくは、ご自分で夢の世界と現実の世界のバランスと取りながら、進んでいかれてください。またお会いしましょう。




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こんにちは

第三の男、です。
管理人のうちの一人で、現在某大学院で研究生をしながら、その日暮しをしています。
趣味は読書、音楽鑑賞、ラジオ鑑賞、他人事への干渉、男の料理、貧乏旅行、理由なき反抗など、さまざまです。
棲家はずっと福岡ですが、二十歳のとき「満州」の「新京」へ「開拓団」として渡り、一年の後に38度線を越えて引き揚げてきました。
ですので、中国語と韓国語に関しては若干の知識を備えていると勝手に自分で思ってます。
最近、龍師範や翔さんなどから教えを請い、武道を始めるに至りました。
しかし怠惰癖により、その進歩具合もかなり膠着状態に陥っています。
専門は経済学で、修士論文のテーマは「韓国の産業政策とその課題」です。
今後は計量経済学を勉強して、この論文をもっと味のあるものにしていきたいと考えています。
それではみなさん、またお会いしませう。  

武道と英語

JUGEMテーマ:語学習得


 はじめまして。管理人の一人、翔です。武道と英語をライフワークとしています。英語に関してはTOEIC975, 英検1級, 通訳ガイドを持っています。しかし正直、まだまだ英語に遊ばれてしまうレベルです。英語初級者だった頃、これらの資格を持てる力に達すればきっと英語で不自由することはないんだろうなと思っていました。

 多くの人は「英語はツールに過ぎない」と言います。確かにそうです。しかしそのツールである英語を獲得するのに、皆四苦八苦しているのが現状ではないでしょうか。英語には真摯な姿勢で向き合いたいと思います。

 このブログにおいて、私は「武道」と「英語学習」をリンクさせる試みを行っていきます。異なる分野からのアプローチ、新しい展開が開けると確信しております。
                                  (翔の作品)




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